アドボ会6月定例会資料

わが子のデータ、どうします?

                                                  2002.6.21 

本庄 一聖(デイセンター山びこ職員)

 

◎お母さんが自分の子どもについて相手が変わるたびに(専門家といわれている人に)生育暦を語ってきたこと

      またゼロから話すの?

      また根掘り葉掘り聞かれるの?

      そこまで話すの?

      そんなこと覚えちゃいないわよ!

 

◎人が変わったら教育内容(方針)が変わる学校

           支援内容が変わる施設

           薬が変わる病院

            良いほうに変わるのならまだいいけれど・・・

          

◎学校・施設・病院の中で、毎日・毎週・毎年つけられる記録、たまっていくデータ

      どれだけ使われているのか?

      膨大な記録から何を探すのか?

      誰がそれを管理・整理するのか?

      変化していく情報をどのように更新するのか

 

◎人の中にしかない記録(記憶)

      時とともに風化していく・・・ のはしかたがない?

      記憶違いや記憶漏れは・・・

      生育暦を人が変えてしまう

      結局はお母さんがデータの貯蔵庫

 

◎データか直感か

      データは万能ではない

      データは無いようで既にある

      親 → 子どもが丸裸にされるような感覚

      本人や家族の知らないところでデータが作られ使われている

      生の人間同士の関わり その面白さと難しさ

      直感的なもの感覚的なもの

      客観的な記録だけでは共感できない

 

◎データを誰に託すか

      託せる人をどう見つけるか

      使う側の問題

      

 

 

処理する人の責任

      データを共有するということ

 

◎データって何? 何のためのデータ? 誰のためのデータ?

      本人を一貫して支援していくために

      本人の支援者として、本当に必要なデータとは?

      プライバシーやセキュリティの問題

 

 

  箇条書きのレジュメでわかりにくいかもしれません、申し訳ありません。

当日は参加者の皆さんからいろいろな意見が伺えて非常に考えさせられました。ここからは私の感想のようなものを簡単に付け足しておきます。

 

いわゆる子どもの基礎的なデータ(出産前の母体の状態から出産・出産後のことや医師の診断・服薬状況・・・etc.)は、特に幼少期から学齢期にいろいろな専門家と関わる時に正確な記録があれば対応する際の大きな材料になるでしょう。実際はまだまだ家族がデータの貯蔵庫・発信源であり、短い期間で支援者が変わっていくという現実を見た時等にも必要です。 ですからそういう意味では親はメモ書きのようなものでも、ポイントポイントで記録を残しておいたほうがよいですし、データが残るような(周囲の)アドバイスや配慮も大切だと思います。

また、支援者(プロ)の立場としては、『誰が、誰のためにどのように使おうとするデータ』かをきちんと意識しておくことが必要だと思いました。

 

ただし、特に本人が自分の状態を他者にうまく伝えられない知的障害児者などの場合には、○○ができるとか、△△が好きといった趣味趣向や本人の状況を表すもの、また環境との関係性の中で変わりうる本人の状態などについては安易にデータ化すると、そればかりが強調されて、ダイナミックなものがそぎ落とされてしまうような気がします。日常の中で、一人の人間と関わることのために本当になくてはならないデータはそんなに多くはないのでは・・・と思いました。数値化しにくく感覚的な部分を持つからこそ、この世界は魅力的なのだと改めて思いました。

 

「知的障害者支援データには基礎資料的なものと支援そのもののデータがあるのです。」

ふきのとう向生舎村尾さんのご意見より       

 

「支援そのもののデータ」 ― 家族でいえば、例えば障害を持つ子どもと過ごす中で綴られた日記のようなもの ― が、何よりその本人や周囲のことを語っていますよね、そのようなものの大切さを痛感しました。

 

機会があれば、いろいろな方とこのテーマで話をしてみたいと思います。最後になりましたが、参加してくださった皆さん、村尾さん、そして養護学校と医療との連携について資料をお寄せくださった江副さん(杉並区おやじの会)ありがとうございました。