パーソナルアシスタンスフォーラム  2008/01/31 寺本晃久(てらもと あきひさ) ■ ・ピープルファースト  (主に知的障害をもつ人が中心となった自立と権利主張を目的とする当事者運動・活動)  に関わって。 ・知的障害や自閉の人の自立生活/地域生活の介助者として。 ■当事者主体とか自己決定ということと裏表の、介助者の位置・主体性 ・サービス、利用者という言葉 ・「使う」ことのたいへんさ・つまらなさ  ・おもしろさ=つまらなさ    「物言わぬ介助者」はクール →使う側に相当程度の力量がないとうまくいかない。  ・たいへん=おもしろい  自立生活運動は、使う側の発想の転換、クリエイティブがあった。「使う」ことを追求していっていいんじゃないか。  介助者の主体性というものがどこかである。(よい悪いはひとまず置くとしても) ・知的障害の人の介助者は、一方的な関係になりやすい  介助者がぶつぶつ欠点や失敗?を言ってしまう。「ひとつの正しさ」なんだけど、「介助者が何をしているか」という問いがぬけおちている。    介助者もどうしていいかわからなかったり、おそれていたりする。余裕のなさ。 →理念の共有(の困難)と個別性主体性を発揮できる(ことの困難)と、それらの両立(の困難) →「ふりまわされる」ことの楽しさ ・生活をともにする、人生をいっしょに歩む楽しさ。ただしそれは擬似的でもある ・「何かができるようになる、解決する」ことではなく/と同時に、生活を送っていけること、その場に居続けることが最大の目的なんじゃないか? ■専門性の内実  ・積極的に「引き受ける」こと  ・それだけの生活が支えられること(経済的な面と、コミュニティの面) ■今の姿は、望んだ姿なのか?  どこがちがっているのだろうか?  前回のフォーラムにて:とても気を遣っている。恐れ? 重度訪問介護を使わせて ◎類型の乱立と細分化  知的障害の人が使えるヘルパーの制度には、「身体介護」「家事援助」「移動支援」「行動援護」がある。  「身体介護」というのは、入浴や着替えや食事介助といったものが典型で、直接体に触れるような内容の介護類型。家事援助は、調理や掃除や身近な買物などの、家の中の家事を回していくための介護類型。移動支援は、目的地へいくのに安全を保ったり、道順を間違わないように支援したり電車などにのるときの切符を買ったり、余暇などに参加するなどの介護類型。この他に、定期的に病院にかかるときの送迎は「通院介護」という別の類型もある。  2003年の支援費制度からこうした類型が制度化され、知的障害をもつ人や児童にも初めて国レベルでの介助の枠組みができた。  しかし、「家事援助」や「身体介護」は、目的と時間が限定されている枠組みである。2006年からの自立支援法においては、さらに家事援助1.5時間、身体介護3時間という「標準時間」がもうけられた。  しかし、地域での日常生活は、介護のスケジュール通りにはなかなかいかないことも多い。その時々によって必要なこと、したいこと、したい時間はさまざまなはずである。「今日は天気が悪いから外出はやめて家の片づけをしたい」ということは、障害あるなしに関係なく、よくあることである。同じヘルパーが目の前にいるのに、「今日のこの時間は、介護計画では身体介護しかできないから〜」ということは、ヘルパーを使う側からはわかりにくい。そういうことも含めて理解することが難しいから“知的障害”だし、障害がなくて理解は出来たとしても、制度やヘルパーの枠組みに生活の方をあわせなければならないとしたら、生活自体ばからしくてやってやってられない。  事業所の事務的な面でも、30分きざみで、身体介護、家事援助と単価がことなり、ヘルパー3級などの介助者が入ったときはまた別の単価。18時までなら「単一」でこの単価、17:30から18:30なら「合成」です、時間が長くなると「増分」だとかで、2時間あければなんたら。移動支援は市によってやり方がまちまち。しかも、市によってやれることが細かく制限されてたり。などなど、わかりにくく事務がむずかしくなっている。  普段は親と同居していて親が時々介助できないときにヘルパーを使うとか、いつもはヘルパーを利用していないが「この日に必ず通院する」のでヘルパーを頼むとか、毎日夕食だけつくってくれればあとは介助はいらない、などであれば、こうした目的別・時間限定の介助類型でもよい。  しかし、地域での自立生活をする場合で、長時間の支援が必要な人にとっては、細切れの介助派遣や、細切れの支給時間の積み重ねではとても使いにくくなってしまうし、必ずしも家事や身体介護という枠にはまらない、生活全体の支援が必要になる。  外出時在宅時とわず危険回避が必要な場合や、必ずしも常に具体的な仕事をしているわけではないけれどもいつ介助が必要になるかわからないために介助者がそばにいることが望ましい場合や、一定の時間をともにすごすことでお互いを理解し安心してさまざまなことができる場合もあるし、また、コミュニケーションに時間をかけることが必要な場合、などのこともある。  目的を限定されずに必要なことができる枠としては、「行動援護」という枠が利用できるが、自傷他害などがある人しか支給決定できず、1日あたり最大5時間しか使えない。また、介助者も、2級ヘルパー資格の上に、さらに新たに義務づけられた行動援護研修を受けた人でなければ行動援護のヘルパーができない。  たとえば家事援助を解釈して長時間で支給決定を受けたりするのだが、制度の趣旨としては例外的な使い方にならざるをえない。利用する側も、全体の介助量を確保するためにしかたがなく例外的な使い方をしており、望んでそうしているわけではないだろう。例外的な支給決定なので、常に介助の量が減らされかねない状況にさらされることになる。また、確固とした制度の裏付けにとぼしいため、どこの町でも当然のように受けられるわけでもないだろう。 ◎重度訪問介護を開放できないのか?  全身性の身体障害の人については、「重度訪問介護」という枠の介助制度がある。  支援費制度では「日常生活支援」と呼ばれていたものが自立支援法においてひきつがれたもので、基本的には1回あたり4時間ごとでの支給決定で、家事援助・身体介護・見守り・外出など時間や目的に関係なく利用できる。毎日8時間から24時間の長時間介護を受けて自立生活をしている身体障害のある人は、まずはこの枠を使っている。  たとえば今年2月の厚生労働省からの事務連絡では、制度の趣旨としてこのように書かれている 「重度訪問介護は 日常生活全般に常時の支援を要する重度の肢体不自由者に対して身体介護、家事援助、日常生活に生じる様々な介護の事態に対応するための見守り等の支援及び外出介護などが、比較的長時間にわたり、総合的かつ断続的に提供されるような支援をいうものであり、その報酬単価については、重度訪問介護従業者の1日当たりの費用(人件費及び事業所に係る経費)を勘案し8時間を区切りとする単価設定としているものである。」  この制度の対象者の中に、ひとこと、肢体不自由者に限定しない旨を書き加えるだけで、上記のような課題の多くの部分は(少なくとも制度上は)解決できてしまうのではないか。 〜つづく〜 重度訪問介護を使わせて〜  その3 行動援護  「行動援護」というホームヘルプの類型がある。2005年4月から新設された新しい類型である。意思表示、自傷他害、他動または行動の停止、パニックや不穏な行動、不適切な行動、てんかん発作といった障害を持つ、知的/発達障害をもつ人の一部を対象としている(自立支援法では精神障害の人も該当すれば利用可能)。  例として「初めての場所で何が起こるか分からない等のため、不安定になったり、不安を紛らわすために不適切な行動がでないよう、あらかじめ目的地、道順、目的地での行動などを、言葉以外のコミュニケーション手段も用いて説明し、落ち着いた行動がとれるように理解させること」「車道に突然飛び出してしまうなどの不適切な行動や自傷行為を適切におさめること」 といったことがあげられている。  介助者には「こうどなせんもんせい」が必要だそうで、支援の経験年数や研修の受講などが必要になっている。誰でも出来るってわけじゃないらしい。  しかし問題行動を止めるのはむしろ簡単だったりする。ただ身体張って止めればいいだけだから。それができないなら、世界を限定するしかない。でも、そんなことだけのために介助者がいるのではないし、そんなことで悩んではいない。  「不適切」とか「問題」だとするのは、まずは周りの人間であって、本人としては何らかの表現だったり文化だったりすることもあるかもしれない(それはやむにやまれぬことかもしれないしある種の生きる知恵や習慣だったりするかもしれない。本人にとって辛いかもしれないし快なことかもしれない)。  予定を伝えるときに「段取りを組んで写真などで順番に伝える」ことで楽になることもあるけど、「まわりの予定」と「自分の予定」との間にギャップがある場合、本人の側がそのギャップを埋めることになってしまわないのかな?伝える側はそれで伝えられて気が済んでしまわないのかな?  介助者に経験が何年あっても研修を何時間受けても、ひとりひとりの好みや生活スタイルや人間関係や困難や悩みやコミュニケーションの取り方を知り、相手も自分をちょっとでも認めてくれなければ、行動援護どころか掃除ひとつできない。言葉で指示してくれればお互いに楽だけど、言葉で言えなかったり、話はできても伝えることが難しかったりとなると、実際に一緒にいろんなことをしてみないとお互いわからない。それにはとても時間がかかる。  「せんもんせい」には、たくさんのわからなさをかかえつつも、一定の空間を共有できる時間、考え続ける時間、それを支えるだけの生活の保障もあると思う。それは社会的な制度の課題でもある。  さまざまなことがありつつも、前向きに生きるために何ができるかという視点がほしいです。「さまざななこと」には、自傷他害がなくても生きていくのは大変だよね。コミュニケーションが難しいとか、わからないこと決めること考えること気苦労は多いし。どういうところでどういう支援があればいいのかということからたてていくときに、行動援護は使えない。制度の中で、ある種の類型化は認めるが、現状では使いにくさが先に立ってしまう。  行動援護が新設される時に、障害者団体から、聞き取り調査の質問内容が差別的だという批判があった。でも、質問の書き方ではなく、そもそもの制度の建て方がずれていたんじゃないか。  現状では、行動援護が支給決定されている人数や時間数はそんなに多くはないのではないか。さらに、それを担う事業所を捜すのは困難だろう。そして事業所があったとしても、その中で行動援護ができる資格をもつヘルパーはもっと少ない。  介助者のコーディネートをする際に、介護福祉士だからとか3級ヘルパーだからとかはまず考慮に入れていない。なぜか、自立支援法になってからは、ヘルパーに関わる何らかの資格があれば、(行動援護以外は)どの類型の介助もできるようになった。資格で分けられると、かえって調整が難しくなってしまう。  そもそも前提と使い勝手が悪いくせに、恩着せがましく、昨年10月から行動援護の要件をゆるめて対象者を拡大しましたと言っちゃってる。対象者は24点中10点以上、介助者は2年以上または1年以上+20時間研修の受講、となった。  2006年10月の時に、2007年春までに研修を受けてくださいと言われて待ちかまえていたら、結局研修の要項や研修指定が遅れて、2007年9月までに延ばされた。けれども年度が替わっても、研修をやるところは少ない。