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知的障害者に24時間介護保障が実現
       全国障害者介護制度情報 2006年9月号


 関東のY市で、1人暮らしの重度知的障害者(自閉症)に24時間介護制度を市が認めました。今のところ6ヶ月の期間限定という建前ですが、今後の交渉で恒久化の可能性もあります。重複障害ではなく、知的障害のみの障害者で24時間の介護保障が実現したのは、全国で初になります。

 長年支援と交渉を行ってきたY市の障害者団体に経過を書いていただきました。

 Y市の重度知的障がい者に620時間+法外通所作業所へ14時間/週(ただし、あくまで緊急対応として今年3月より9月末までの支給です。)


(Kさん・男性30才・愛の手帳2度・自閉症)

 今年3月下旬、自立生活をする重度知的障がい当事者のKさんに620時間/月の居宅介護の支給決定がなられました。

 それまで、280時間/月の居宅介護時間を派遣事業所や当会の支援によってKさんの24時間の介助を維持してきましたが、3月中旬にKさんが起こした隣人とのトラブルでKさん自身住まいを追われ、私たちが運営する自立体験室での生活を余儀なくされたことにより、市は緊急対応と言う事で3月より3ヶ月間に限り620時間の居宅介護を決定しました。3ヵ月後その状態が変わらないことから2ヶ月間延長し、7月には体験室を出て新たな住まいが見つかったと言う事で制度の変わり目である9月末までこの時間数が支給されるようになりました。3月中旬に起こった出来事から市に対し支給変更申請を行い、3月末に決まったこの市の決定を私たちも予想していませんでしたが、長年地域で暮らす障がい当事者の24時間の介助保障を求めてきた結果としての緊急対応であると考えています。

 そこで、この結果に至る長年の取り組みについて他の地域の参考になるのではないかと思い、その過程を書いてみたいと思います。


【Kさんとその背景】

 Kさんは重度の知的障がいを持つ自閉症の方で、コミュニケーションに困難さを抱え、人との接触を極度に嫌い、その行動も調子を崩すとかなり激しく、本人の意図とは別に結果的に周囲へ様々な危害を与えてしまうという人です。

 彼は幼い頃から「地域でともに生きる」ことを願う(「障害児の」親たちの集まり以外の)人たちの中で育ち、小中学校は地域の普通学級に通ってきました。(当然、教育委員会や学校からの追い出し工作は数えきれないほどありましたが、それはKさん並びにその家族だけでなく、地域の課題として多くの仲間とともに学校並びに教育委員会と話し合いを続け無事中学を卒業しました)そのため知的で自閉症であっても、クラスの仲間との付き合い方を彼なりに生み出し、又周囲もそのような彼を認める関係を作ってきました。中学卒業後の進路については、「学校!行かない!」と言う本人の想いに則し社会人として地域の中で生きる事を彼を取り巻く人たちとともに考え展開を始めました。

 当時(今も)「社会人=働く」と言う選択が多いこの日本にあって、Kさんも当然「働く」事を考えているだろうと言う前提に、彼が社会人として働く事を課題としてきました。ただ、それは中卒で重度知的当事者を受け止める「働く場」はなく、私たちは他の青年とともに「働く」事をテーマとした活動を開始するということになりました。(後々この取り組みはNPO法人を立ち上げ、Kさんや他の当事者とともに現在働く場として、今の彼の自立生活を支援しています。)

 中学卒業後の彼の日中は、私たちと週3日関わり、その他は彼自身が決めた場所を自由に練り歩き、社会人となった暮らしを満喫していました。彼の向かう先の中には、市役所ロビーや図書館・公民館といった公共施設も入っていました。当初彼が選んだその先では、定期的にやってくるKさんに対して市の職員は「他の利用者の迷惑になるから来ないようにして欲しい」という申し出がありました。しかし私たちは、「一市民であるKさんの何が迷惑なのか?」「Kさんが迷惑なのではなくKさんの行為が迷惑であるなら、Kさんに迷惑である事を伝えるのは管理者側の課題であり、管理者側の課題に対して私たちは協力する」と言うスタンスでKさんの存在を市にも認める働きかけを行ってきました。そして、十数年経つ今日でも公共施設は彼の居所として定着しています。(これぞまさしく本人活動ではないでしょうか!)(さらに!その申し出をしてきた職員は現在障害福祉課係長になっていて、彼がここまでの支援を得る遠因にもなっているように思います。)

 彼は、普通学級で育ち卒業後も地域の中で暮らしてきたことで、地域の多くの人たちに彼の存在が認知され、個別の介助保障ではないけれど、家族だけでなく地域の様々な人たちから彼は支えられ暮らしてきました。

 今から数年前、彼は自立生活をする事を欲するようになりました。コミュニケーションに困難さを抱える彼のその意思を明らかにすることは非常に困難な事でした。当然本人とのやり取りだけではその事を十分理解できず、逆に当時(今も)彼のような様々なトラブルを起こす人が地域で生きる事を良しとしない世間からは、「本人の意思ではなく、周囲の勝手な思い込み」「運動体に利用されている」などの罵声を浴びる事もしばしばありました。しかし、幼い頃から作ってきた地域の関係により、少なからずいた彼の存在を認めようとする周囲の人たちと約半年に渡り彼の意思確認に努めました。世間的には「パニックや暴力」と写る彼の行動も、私たちは彼の表現として捉え、彼が表現したい中身を知ることに努め、周囲の人たちから様々な情報を集めその理解に努めました。そして、様々な情報から「彼は自立生活をする事を望んでいる」と言う事が明らかになりました。そして、私たちは私たちの関係性の中にいるKさんだけではなく、これまでのKさんと作ってきた関係を持って彼の自立生活を支援する事となりました。(実際自立生活を始めた時からKさんは急に落ち着きを取り戻し、自分たちの判断の確かさを得ました。)

 自立生活を始めた当初は、21時間/週のホームヘルブヘルパー派遣と40時間のガイヘル(Y市では中軽度がガイヘルの対象となっていたので重度のKさんは、ホームヘルプで対応していました)程度の行政からの介助保障を受けていました。その後、トラブルが発生するたびに派遣時間が増え、今年2月の段階では身体介護47時間・家事支援190.5時間外出介護(身体介護なし)48時間の計285時間/月になっていました。

 そして、620時間もの時間が支給されるきっかけとなったのは、彼が暮らすアパートの隣人とのトラブルから賠償問題にまで発展し、その緊張感から彼が自らのアパートでは暮らせなくなり、私たちが運営する自立体験室に避難することで、その難局を乗り越えようとした事にあります。

 2月までは1つの派遣事業所が不足する支給量を持ち出す形で彼の24時間(日中活動の場は除く残りの時間)の自立生活を支援していました。しかし、支援費以降事業所の持ち出しはきつくなり、コミュニケーションに困難さを抱えるKさんが望む支援を行うと言うよりも、とにかく24時間の支援を必死にこなすしかなかった状態でした。そのため事業所の側にも余裕がなく、その余裕のなさからKさんも又調子を崩していった中でトラブルが起きたと私たちは考えました。表面的にはKさんが起こしたトラブルでありますが、それはKさんの障がいでありその障がいを支援するため必要とする支給量を出さない行政責任でもあると市に訴えていきました。

 そして、620時間の支給がなされた現在彼は、私たちの会のケアマネ的な支援(基準該当事業所を起こし居宅介護の中で行っている)を受け、居宅介護事業所2社(一つは当会が生み出し独立していった事業所、一つは知的当事者団体が作った事業所)から介助派遣を受け、中学卒業以来関わってきた「働く場」に通い支援を受けつつ自立生活を成り立たせています。(ちなみにA通所訓練作業所は、通所訓練作業所補助金を得て運営されている所ですが、実際には障害のあるなしに関わらず同一賃金で働く場を展開している所です)

 生活費については、1級年金と生活保護そしてA作業所の給料で暮らしています。(今年6月までは、生活保護を受けずに生活は成り立っていましたが、3月に起こった出来事の賠償だの修理だのがかさみ、もしもの時ように貯めていた年金をすべて使い果たしました。又、多くの支援を受けるために上限いっぱいまで負担金を取られてしまうこともあり生活保護になりました。)

【T市との交渉の歴史】

 ところで、いきなり620時間もの時間を支給されたT市の歴史を少し書いてみたいと思います。

 私たちは20数年前より「地域でともに生きる」ことテーマとした統合保育や統合教育の運動を行ってきました。いわゆる関東の介護保障の運動でもなく、関西の場作りの運動でもなく地域の中で様々な子ども達がごくあたりまえに育ちことを願い、統合保育・養護学校義務化反対・就学時健康診断拒否・障害児の高校進学といった主に子ども達の社会である学校に目を向け、ともに育つ事を課題とする取り組みがなされてきました。子ども達が育つ事において、制度を利用すると言う発想よりも地域全体で支えあう事を求めていました。そのため、私たちが向き合う行政は、福祉部ではなく教育委員会学務課や指導室・社会教育課や公民館でした。ただ、唯一積極的に利用していた福祉制度に緊急一時保護と言うものがあり、これは親から離れ他人の中で育つ子どもたちを保障するといった視点で利用してきました。

 行政の制度を利用するのではなく市民で支えることを求めていた私たちは、今から20年前に知的療育施設から出て自立生活を始めた重度知的当事者の一人暮らしも、多くのボランティアとともに彼の24時間365日を支えてきました。(当時週3時間/週のホームヘルプは利用していましたが、それで彼の生活は保障されていました)

 その後十数年前に重度身体障害者の方が転入してきてことを契機にY市に在障会が生まれ、それまでの運動とは少し違った視点から地域で暮らす障がい当事者の介護保障の取り組みが始まりました。さらに、十年前にともに育ってきた子ども達の中で自閉症を伴う知的障がいを持つ青年の自立生活が始まりました。その辺りから取り組みの基本は「ともに生きる」ことでしたが、地域の支えあいだけでは当事者の暮らしを支援し続けることの課題が見え始め、重度身体の方の取り組みともつながる中で、自立生活をする知的当事者に対する介助保障の行政交渉の歴史が始まりました。

 Y市の行政交渉の特徴は、これまでのCIL等の重度身体障害者の行政交渉と同様の面を持ちつつも、知的障がい当事者に対する支援のあり方についてもそれと同様に支援の必要性があることを訴えてきました。例えば、Y市では全身性介護人派遣事業について認められている入院時の介助派遣は、知的当事者には利用できません。しかし、介護人派遣事業がヘルパー制度と統合された事を機に、知的当事者に対しても入院時に家事・身体介護を使い介助が認められるようになりました。又、移動支援が単なる外出介助や社会参加という括りではなく、知的障がい当事者にとって自立生活の一歩であると位置づけ、親以外の者との時間を共有し自らが世界を広げていく制度として行政が認知できるように交渉してきました。それらは、24時間の介助保障を求める重度身体自立生活と知的当事者の自立生活が常にセットになって交渉を積み重ねることでT市の介助保障の取り組みがなされてきました。

 重度身体の介助保障では時間数や単価の保障を勝ち取る取り組みが主で、勝ち取った者はそれぞれの当事者自らが使いこなす事で自立生活は成り立っていきますが、知的当事者にとっては勝ち取った時間数や単価を使いどのように当事者を支援していくのかが常にあります。その考え方の中でY市での交渉は常に単なる時間数や単価の交渉ではなく、なぜそれが必要なのかを確認しながら進んできました。すなわち、ある特定の「うるさがた」の介助保障ではなく、その結果の意味づけを行政に求めその意味づけを同じく知的にもあてはめ知的当事者にとって支援の必要性を市に認めさせてきました。

 又、重度身体の人たちは「施設からの自立」「親元からの自立」と言う事で、他の地域で生活していた人がY市で自立生活を始めるのに対して、知的当事者は幼い頃から地域で育ちその地域の中で自立生活を始めるという点での特徴もあり行政も他の地域から来た者の介助保障には取り組むが地元で育った人たちの介助保障を無視するということはできないという点でも大きかったと思います。又、措置の時代の登録ヘルパー制度についても重度身体の人たちが早い時期に獲得しました。私たちはそれを知的にも同様に活用し支援にあたってきました。重度身体の人たちは人材の確保を大学等に求めてきましたが、私たちはこれまで作ってきた地域に住む様々な関係者を登録ヘルパーとして支援することが多かったため、市民との協働を具現化する者としても私たちの存在がありました。
 その登録ヘルパーですが、二人目となる知的の自立生活者は、1日5〜6時間のヘルパー派遣を登録推薦ヘルパーと言う形で受けることができました。

 実際には何らかの形で24時間の支援を必要とする人でしたから、登録推薦ヘルパーで得た介助料をこれまでに作ってきた関係の中で具体的に支援する者と再分配する形で支援し、それはその後に続く知的当事者の自立生活にも対応していくベースを作ってきました。当時は「ともに生きる」と言う発想の中で支援してきた者がたくさんいたので、少ない金額(確か400円〜500円だったと思います)でも何ら苦もなくやれていました。

 しかし、7年前3人目となる知的障がい当事者の自立生活支援では、24時間の見守りが必要な上に、地域の中で様々なトラブルを起こし続けたことと、さらに3人目ともなると「地域の支えあい」と言う事だけでは十分な人材を確保できなくなってきました。この辺りから当会周辺でも本腰を入れて自立生活をする知的当事者に対する介助保障を行政に求めていくようになりました。それは、単に3人に対する支援と言う事だけではなく、私たちのそれまでの取り組みが地域で暮らす子どもたちを対象に活動していましたから、彼ら3人の存在は知的当事者の自立生活のさきがけとして、今後も次から次へと生まれる事を予感しての事でした。

 そこで、これまで運用してきた登録ヘルパーでは、「セルフマネージメント」できない分知的当事者の自立生活の支援においては十分でありません。なぜなら登録ヘルパー料は、実際に介助に入った者で分けることになり、当事者と生活の組み立てをしたり、当事者とヘルパーの調整やその他ヘルパーでは担えない生活支援についてはすべてボランティアに頼るしかなかったからです。

 例えば、触法行為や他害行為を起こす当事者の事は、単に当事者自身の責任ではありません。自立生活をする知的当事者の数は非常に少ないのですが、その支援を担うヘルパーの数も非常に少ない現実があります。重度身体の場合ILプログラム等で当事者自身がヘルパーを使いこなす練習をし、当事者自身がヘルパーを育てて今日の自立生活を成り立たせていると思います。しかし、重度知的の場合ヘルパーに見える当事者は、体が自由に動く分当事者の困難さが見えす、支援をする事でかえって当事者を追い込む事もしばしばあります。今回のKさんのケースでもまさにそうであり、支援の側の質を上げるためには、ヘルパーと当事者とのやり取りだけではなく、支援する側が取り組まなければならない課題がたくさんあります。しかし登録ヘルパー料が実際に介助に入る者に支払うだけでは、その課題を解決するだけの余裕はなく、どうしてもその分の費用が必要となりました。(当時登録ヘルパー単価1470円・事業所派遣2100円。当時の支給時間は7.5時間/日)

 そこで、私たちは当時措置の時代にありましたが、自らが派遣事業所となる事を市に認めさせるために別のNPO法人を立ち上げ、市のヘルパー派遣事業に名乗りを上げました。市は「市内の派遣事業所は充足している」と言う理由から難色を示しましたが、せめて実際登録ヘルパーで行っている分についての対応を迫り、交渉の結果私たちが事業所としてヘルパー派遣ができるようになりました。ところが、長年知的当事者支援を行ってきた私たちの事業所が事業を受託したとたん、利用が一気に集中しさらに新たな利用が広がる中で、市は私たちが行う活動について認知せざるを得ない状況となりました(中軽度知的ガイヘル事業は、初年度予算の私たちの事業所で8割を消化すると言う事態になりました)このことは、単に制度があるだけでは知的当事者にとっては意味がなく、実際に利用する事で当事者が制度を理解すると言う点を市に訴えていく実績となりました。

 それは、運動としての当会と別に立ち上げた事業所との両輪により、実際場面での支援の内容を市に伝え知的障がい当事者の支援の困難さや必要性を具体的に訴えてきました。T市では先の在障会での介護保障の取り組みと当会が訴える地域での支えあい、そして知的当事者に対する実際のヘルパー派遣とが相まって支援費以降後、知的当事者に対する支援の必要性を市に訴えかける機会が増えてきました。

 個別必要とする内容が異なる知的当事者の支援について、私たちは単に市との交渉と言う場面だけではなく、当事者に必要な支援が具体的になるたびに支給変更の申請を繰り返してきました。例えば、今回のKさんの場合極度に人との関わりを嫌います。故にヘルパーをつけてもヘルパーを避けてしまいます。しかし、ヘルパーがいない分自分自身で何でもこなそうとするあまりかえってトラブルになったり生活に支障をきたしたりします。行政としては「本人が望んでいないヘルパーは派遣できない」と言うのですが、ヘルパーを避けること事態が彼の障がいであり、ヘルパーという存在になれること自体がヘルパー派遣の要件になる事を認めさせて来ました。又、ヘルパーがいると家に帰ってこない彼に対し、留守宅派遣を認めさせたり、結果待機状態のヘルパーも請求の対象になる事も認めさせました。

 最近の交渉では、重度訪問介護に「見守り」を認める事をとり、その枠を利用ができず居宅介護の枠しか利用できない知的にとっては、居宅介護において同様の「見守り」を認めるように訴えてきました。実は、私たち自身も又行政も、知的当事者の自立生活に際して必要な支援が何なのかを十分理解しているとはいえません。それこそ、当事者でない支援の側は常に当事者を管理する方向へと進む傾向があるからです。私たちは、どのような状態であっても支援し続けることを前提とし、知的支援の理解に不十分な行政に対し、まずは支援をし具体的になった支援の内容を、「支給決定変更申請」と言う形でしに認めさせてきました。

 知的当事者の場合、支援の質やその人の環境又経験等によって、同じ障害程度であっても支援の必要性は変わるし、支援の側の質によっても大きく変わります。又、本人が望む支援を自身で語れない事においても様々な支援が必要であり、今当事者が必要とする支援とは何かを「変更申請」を出すたびに当事者の状況を伝え支援の必要性を伝え、市が納得できる範囲を増やしてきました。さらに、私たちは市が理解したであろう範囲をオープンにする事で、「特例」と言う対応ではなく広く誰もが利用できる制度となるように勤めてきました。

 そのような取り組みを重ねてきましたが、今から3年ほど前不十分な介助保障の中で、ある当事者がその行動を理由に一度保護入院をさせてしまう結果が出てしまいました。私たちこのことを悲痛な思いで受け止め、当事者の想い・支援者の努力だけでは当事者の自立生活が成り立たない事を市に訴えました。その彼は、新たな支援団体からの支援も受ける形で1ヶ月後に退院させることができました。しかし、入院中の当事者の様子を市の職員に見せ、退院後支援があれば自立生活ができると言う実態を市に見せ付けることで、その保障をする行政の責任を追及してきました。

 そのような取り組み中で、知的当事者に対し280時間/月の居宅介護が保障されるようになりました。しかし、それでも十分といえない中で交渉や支給変更申請を続けてきましたが、なかなか形として明確にならない知的当事者に対する支援に行政はそれ以上の時間数を決定する事はありませんでした。

 そこで、私たちは不十分な時間数に対し基準該当事業所という枠を使い支援の質を上げる取り組みを始めました。基準該当事業所は、支援費制度に移行する際都道府県の指定基準をみなさない事業所に対し市区町村の基準によって指定事業所と同様の派遣が行えるようにするための措置です。(4月以降85%に減算されていますが)Y市では支援費制度に移行する際、登録ヘルパーを使う当事者が多くいたため、その派遣を認めるために基準該当事業所を市は認めました。その際、いわゆる指定事業所になるための移行措置ではなく、「当事者が望む人材確保」の観点から市が実施するものであり「可能な限りその基準を緩和する」と言う点について確認をしました。その事は今後自立生活をする当事者にとって有効な人材を集める手立てとして位置づけたわけです。

 私たちは、その枠を昨年10月に使い新たな基準該当事業所をつくりました。(私たちが立ち上げたNPO法人の事業所は、利用者が増えた事によりきめ細かな対応が難しくなったため、当会と株分けしました)私たちが行う基準該当事業所の役割としては、実際の支援の現場に入りながら単にその時間の支援を行うだけでなく、そこで見える当事者の要望や支援のあり方を他の事業所に伝え、本人の求めに応じたヘルパー派遣を各事業所ができることにあります。さらに、指定事業所は市にとって一事業所と言う距離を置かざるを得えない面を、市が指定した事業所と言う面から、その事業の中身を市が把握するためのやり取りをこちら側から求めてきました。
 この基準該当事業所には、他に2名の自立生活をする知的当事者もいて、それぞれに異なる知的当事者の生活支援のあり方を3名の当事者の生活を通じて市に伝え、知的当事者に共通する支援のあり方を訴える結果となっています。

【Kさんへの決定理由をまとめてみると】

 このような背景や交渉の積み重ねの中で、今回の市の決定理由について私なりにまとめて見ると以下のようになると思います。

 1.KさんがY市で育ちY市で自立生活を始めた。

 2.障害児の親の取り組みではなく、地域の課題として市民による取り組みがなされてきた。

 3.重度身体障害者の自立生活における介助保障の交渉を単なる時間数や単価の交渉に
  とどめず、障害者全体にかかる介助保障の実現に向けた交渉として行ってきた。

 4.個別の介助保障と当事者の暮らし全体の支援を考え、単に福祉行政のみの交渉ではなく、
  社会教育等他の部署とのやり取りを行ってきた。

 5.特定の知的当事者の支援ではなく(行政は交渉によってすぐ特例をつくりたがるが)、
  交渉で勝ち取った事を他の当事者にも情報として流し、裾野を広げてきた。

 6.まずは、当事者の自立生活を周囲が様々な形で支え、市民により具体的な支援を行政に
  認めさせてきた。


 1.と2.については、重度身体の人たちが施設等別の地域で育ち自立生活を始めるのに対し、私たちの取り組みは常に地域の中で取り組んできた事にあります。
 
 それは4.を見ると、行政の職員は定期的に人事異動をさせられますが、市民を対象とした仕事である限りどこに異動しても当然その部署部署で障がい当事者のことを意識せざるを得ない状況があります。例えば、たまたまでしょうが現在障がい福祉課にいる職員の半数近くが、児童館や学童クラブの職員を経験した事があり、当時「障害児を普通学級へ」と言う取り組みと同様に、学童クラブや児童館に対し障害児の受け入れを迫り、その結果として受け入れた児童が今、障がい福祉課の職員として幼い頃を知る子どもの自立生活を今度は障がい福祉課の職員として対応しているのです。

 職員も人間ですから、当時障害児の受け入れについて私たちと交渉してきた人も、一旦人事異動で他の部署に行き、数年後再び障がい福祉課の窓口で当事者とであった時、当時私たちが訴えていた事柄を改めて振り返り、施設入所せずに親元を離れ自立生活をしていると言う現実を受け止めないわけには行かないのではないでしょうか?又、逆に公民館等の社会教育関係にいた人が、公民館活動において「障がい者とともに」と語っていた人が、障がい福祉部の窓口に異動してくれば、語ってきた事の具体化がそこにあるわけで、部署が変わったからと言って自らの考え方を露骨に否定するとはできなかったりするのです。

 5.については、自立生活をする人が少ない時は大盤振る舞いで支給決定する市もありますが、それは特別な事で、それ以降続く者に対しては極度に時間数を削減したりします。Y市でも時間数を確保していったのは重度身体の方々ですが、その交渉の過程をともにしそこで勝ち取った事柄を広く伝える事で、介助保障のベースを底上げしてきました。

 そして、重要なのは6.のまずは始めるということです。知的当事者自らが求める介助保障は本人がそのすべてを語ることができません。時には逆の要求を出したり、将来を見すえることが苦手な当事者はその場限りの支援ばかりを求めることもあります。その結果当事者自身も支援を受ける事で苦しくなったり、支援者も当事者に振り回されたりする中で、行政に訴えても行政もなかなか動こうとはしません。そこで、実際の支援を積み重ねる中で必要な支援を明らかにする必要があると思います。

 又、重度身体の人たちは自らの意思を周囲に伝えることで、自立生活を本人が望んでいることは明らかになりやすいですが、知的当事者の場合いつも「本当に本人が望んでいることなのか?」と言う疑問が行政だけでなく親や周囲の人たちにいつもついてきます。その本音は、「支援体制不十分だから自立させられない」と言うことでしょうが、これまでも「不十分でもやるしかない」と言う中で積み重ねてきた実績が、今の状況を生み出しているように思います。そして、Kさん自身のことで言えば、様々なトラブルがあり何度となく支援の側はその限界を感じてきました。しかし、その度に支援のあり方を考えその内容を市に訴えることで、再びKさん自身の自立生活が回りだす経験を私たちも行政も数多く経験してきた結果だと思います。

 3月以前、目を吊り上げながらいつ何が起こってもおかしくなかったKさんが、620時間の支援を受け半年近くたった今、以前とは考えられない平安の中で自立生活を行っています。それは、単に620時間と言う支援時間の結果だけではないのですが、その時間があることでできる様々な支援と言うものがあることを今現在市も理解しているとおもいます。そういった中で、9月末と言う期限が迫る中、これから更なる市との交渉に向かうところです。

【620時間の今後】

 620時間という支給決定に対し、私たちは今しばらくこの時間を延長する事を求めています。そもそもKさん自身は常にヘルパーが張り付いている状態を良しとしているわけではなく、しかし、空白の時間で起こる様々なトラブルゆえに自立生活が危うくなる経験もつんでいます。

 今回の市の対応でKさんが落ち着いた大きな理由としては、620時間の支給決定により派遣事業所の持ち出しがほとんどなくなったことで、不足する事業所の力量を他の事業所を入れることでカバーする事ができた事です。重度身体の人たちは過去において同様の支援不足を経験してきたと思います。それは当事者自身が納得し、その不足分を自らが背負い次の介助保障につなげてきたと思います。しかし、重度知的の場合支援の不足を本人が認識する事は難しく事業所が持ち出してでも支援し続けなければ当事者の生活は維持できません。その中で事業所は余裕をなくしヘルパーの質の低下を招き、とりあえずの支援をするしかありません。かといって力量に見合った事業所を見つけようにもそのような事業所もなく、持ち出し続けなければならないし、力量に見合った分の持ち出しをしようにも、支給量を他の事業所と分ければ持ち出しの割合が増えることからそれもできない中で悪循環を繰り返していました。当事者の調子がよい時はそれでも何とかなっていましたが、このような事態になると支援の側の課題よりも本人の状態の課題にどうしても目を奪われ、次の支援を思考できなくなってしまいます。

 今回、620時間のうち一部を他の事業所に依頼したことで、それぞれの事業所が実際に派遣した費用を得られるようになりました。そうなる事で当会も事業所に対し支援の内容についての改善を求められるようになって来ました。そういった意味ではこのまま620時間の支給を維持する事を願うのですが、Kさん自身が良しとしているわけではなく、支援の側としては非常に悩んでいます。行政に対しては、620時間の支給によって本人の自立生活が再び回り始めた事、現時点でKさんの介助保障を考えると他に変わる方策(制度)がない中では、この時間をとりあえず維持して欲しいということを伝えています。

 重度知的当事者の自立生活は、ヘルパー派遣の時間数や単価によって保障される面も多くありますが、それだけでは十分ではなく、真に当事者の自立生活を考える時未だ見えない課題も含め、今後も様々な取り組みが必要だと思います。ただ、今回の市の決定において620時間という数字は、彼の自立生活の危機を救ったと言えるわけで、10月以降現段階でどうなるかは、9月最終週の交渉にかかっていると言えます。

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