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安心感を返していく  <強度行動障害への支援のあり方> その1
                   =あおぞら 11号=
                                                 金沢信一



はじめに


 支援をしている人の中に教育・訓練などと称して強制力や恫喝的な言葉や態度で障害者に接するなどのいわゆる怖い存在の支援者がいます。障害者はその支援者に対して内心ではいやだなと思いながらも、その支援者に無理をしながら肯定的に対応し、それを更に強めることで安心感を得ようとしている人たちがいます。私はそのような人たちを過度の適応として過適応症候群?と名づけています。

 怖い存在の支援者による支援の方法は「恐怖感を持たせるために威圧的な指示により障害をもつ人を追い込み、本人が少しでも受け入れると誉める」というやり方です。

 すなわち、本人の逃げ場を絶ち、囲い込みのような状況をつくり、その中で本人に圧力をかけ、本人が支援のやり方を受け入れれば安心感を与えるやり方です。

 本人にとって支援者の強制的な指示を受け入れるしか逃れる道や安心感を得られるすべはありません。このような関係を作り上げ、無理をして受け入れる、受け入れさせるという飴と鞭のようなやり方は過適応を強いる技術であると考えます。

 このような扱いをうけてきた知的障害の人が多くいるのではないでしょうか。支援者は支援をしている時の自分の顔をチェックしたらいかがでしょうか。鏡に映る顔は眉間にしわが寄っていませんよね。眉がつりあがるほど威圧的になっていませんよね。自分の支援のやり方が相手の人権を侵害することなく、本人の将来のために必要な支援であると常に問いかけながら日々行動する
ことが重要です。

 親御さんの中には少しぐらいスパルタ教育をしても、それらの行為は支援者の熱意の表れだと解釈されて、自分の子供が少しでも何かが「出来るようになる」ことを喜ぶことがあります。そのような親御さんの要望に応えるため、はたまた良い支援の証のために本人に無理をさせても「出来るようにしてやっている」と考える支援者や教育者は多いものです。

 一方では、親御さんの中には学校や日中活動の場で無理強いされているわが子を見ながらも人質に取られているので、支援者に意見や文句を言えないという方も多いものです。

 私にはそのような親御さんの気持ちがわからないわけではありません。子どもたち本人は多分そのような親の気持ちを受け入れようとするのでしょうし、又、その場ではよい子を装い本心を隠しながらも従い時間の経過をただただ待つという過ごし方をしている状況を散見します。

 そこには大変せつない状況があるのです。勇気を出していえば、そんな状況から行動障害に至っている人がいるように思います。「やる」のは本人です。「やる」、「やらない」を決めるのは、あくまでも本人なのです。

 この様に強圧的に接する扱いは古い体質の支援者に多いような気がします。このような扱いは言い方を変えれば障害を有する人たちに対する「いじめ」です。

 世間で注目されているパワハラ、セクハラなどと同様にこのような行為はモラルハラスメントのひとつと考えます。こうしたやり方は即刻禁止すべきですが、古い体質の支援者が「管理的な必要性があるため」などと称するのも自分た
ちのこうしたやり方を肯定するための言い訳なのです。

 この様な状況におかれた障害者は当然のことながら後遺症のような癖をたくさん残していきます。要するに、障害者本人にとって真の問題解決がなされず、また、本人自身の思いとはかけ離れたところで教育・訓練を受けてきたために不適当な行為が育まれるといっても過言ではありません。
 
 障害を持っていようといまいとに関わらず、社会の中で暮らさざるを得ない私たちはこの様な状態に置かれていることが多いといえます。むしろ、通常の人間関係を離れ、お互いにゆったりと観察しあい、お互いの思いとは何かをじっくりと考える機会が求められているのです。



<内的動因(思い)の変化>


1.安心感の喪失はそれに代わるものを必要とする


 強度行動障害とは外側から見ればその物差しである強度行動障害判定指針により示される一連の行動の起こる状態のことです。しかし、その様な言い方は強度行動障害の本質をとらえたものではありません。 本来、人は絶えず他者と触れあい、他者との繋がりの中からから安心感や信頼感を得ています。そして、不安感や不快感を自らの力で解消し、内的平衡を保っています。しかし、人との繋がりの中で安心感が得られないときにはそれに代わるもの、代理物が必要となります。さて、同一性の保持、こだわり行動と
いわれるものは、人との触れあいの中で安心感が得られない人が内的平衡を保つための行為ではないでしょうか。

 例えば、絶えず声を出している人はその状態で自己の平衡を保っているのでしょうし、不安が更に強まれば、大きな声となるでしょう。また、身体拘束の問題においては拘束された状態に安心感をもち、拘束を解かれることで不安になり、拘束を求める人もいるのです。

 行動障害に対する最も適切な対応は、本人が安心感を得にくい事情を理解し、その問題点を解消し、他者との心地よい触れあいに導き、安心感や信頼感を回復することが大切なことだと考えます。

2.行動障害の抑圧、統制は本人の思いに着目していない

 障害をもつ人の支援を行う側は、行動障害のような状態が現れるとその原因である内面の状態に着目するのではなく、対処療法的対応になりがちです。その人の内面の原因により表出された「行動」へのみ着目し、抑制的対処が行われるのです。

 すなわち、抑制的対処の目的は、本人の内的動因が変化することや内的平衡が得られるように対処することではなく、表面的に行動障害が出ないことに価値が置かれることになります。しかしながら、「行動障害が出ない状態」とは必ずしも本人の内的平衡が保たれている状態であることを意味してはいないのです。このような状態は本人にとって最も不安感が貯め込まれている状態であると考えられます。

 ところが、周囲の人は表出された行動障害のみに着目する見方になりがちで、本人の内面において何かしらの原因となる問題が存在することに着目しないのです。

 このような見方は行動障害が出ないように、出ないようにと対処するように否定的な見方が周囲に作られてしまいます。その次に行動障害に対する抑制的な見方がなされることになります。
 
 その様な見方から本人と周囲の人との間に悪循環を作り出し、ある一定の緊張ある関係性が作られることになります。その関係性はそれを感じた本人から行動障害をむしろ引き出す一因になっていきます。その様な緊張感ある関係性の中では本人自身の内的状態はさらに悪化し、しかも、蓋をされた状態になり、「叩く自分」と「叩いてはいけない自分」に分裂するような状態に陥ります。

 このことは本人自身が自分自身の働きを抑制しようとしているのかと思われます。脅迫的な葛藤の状態といえます。

 その結果、表面的には行動障害が無いような状態が作られることになります。しかし、行動障害の原因となる内的問題が解消されたわけではありません。ましてや行動障害自体が内的平衡を得るための代理機能を果たしているのだとすれば、内的平衡は得られないので、不安定な状態が継続することになります。周囲の人の否定的な見方や抑制により内的な抑圧は圧縮され、より強まることになります。

 このような状態に陥ることはさらにより大きな行動障害の原因を作っていきます。この様に他者から症状を抑制され続けるとその反動として、より強まったものが行動として表れることになります。それが俗に言う強度行動障害であると考えます。

 人との交流を絶って閉ざされた中で自己の安定を図る状態を自閉的状態と考えれば、強度行動障害の状態とは自閉的対処を抑制され、自己の内的平衡を失った状態といえます。

 それ故に、自傷、他害、強いこだわり、感覚遮断などへの強い抑制、外界との遮断、強い緊張、強い弛緩、パターンに拘束された暮らしなどの放置できない状態に対して対症療法を行うことは、好ましいものを失うというこじれた状態、つまり収拾のつかない状態をさらに深化させることになります。このような悪循環は外的世界へ進出し、主体的活動を行うために必要な人間関係作り、すなわち、人との触れあいの中で安心感、信頼感を得るという内的平衡感を調整する機能がつくられないという大きな問題をはらんでいること
になります。

                                           (続く)

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