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「誰であるか」と「何者であるか」ということ
           =やーっ報42号=
                                  茜の里 福祉職人  丸木 功彦

                      ―ある妄言―

 某厚生労働省役人氏いわく、「一部障害者が我々に抗議に来るがお門違いだ。我々がよい制度を作ろうと思っても財務省に抑えられ、各省に政治家がうるさく注文をつけ官僚の思うようにいかなくなった。彼らを選ぶのは国民だ。障害者はみずから国民の意識を変える努力をするしかない」……悪事の言い訳ついでに「障害者」に全責任をなすりつけるところなど、明治来の官僚支配の伝統と文化の健在に拍手したくなるところだ。

               ―whoであること、whatであることー

 この社会では「何者であるか」―以下whatと略―が社会関係の基軸であり、評価の基準である。つまり肩書きという奴だ。

 whatになるとは、社会組織の歯車にならんがため、教育の名のもとに商品化され、かつ自己を商品化することで、いくばくの金力と権力を与えられるかの競争である。

 我々はwhatに一生を賭し、身をやつし、有能な歯車たらんとして私の「誰であるか」―以下who―を圧殺しようとする。

 whoとは、今日whatに侵食されつくしたごく私的な生活部分が十把ひとからげにされ、whatを奪われた人々の対人関係の領域にしか残されていないのだろう。だが時に、我々が”人間として”他者に共感や同情・不正や暴虐に憤りを覚えるのは”whoの私”である。

 それは、社会的動物という生物的基礎の上に、養育というあらゆる文化に共通した親密濃厚な個別的人間関係によって育まれた、人間の存在条件そのものに根ざした普遍的感情である。それは他者を前提とした他者との共在の基礎であり、”ひととして同じ仲間である、あなたとわたし”という対等平等の対人関係とその延長にのみ現れ出る”私”である。

 whoとwhatは矛盾対立しつつ社会と個人のうちに、二面性として生きられている。

          ―私たちの目のまえにいる人々は(例えば山びこの)―

 「障害」は人生の一条件ではないのか。なぜか彼らは丸ごと「障害者」と呼ばれる。あたかも「健常」を区画するための対照であるかのように。

 このピラミダルな社会では、彼らはその底辺にしか居処を与えられない。まるで「障害」が悪であり、本人の責任(自己責任!!)であるかのように「支援してやるから、自立訓練し、更生し、就労せよ」と、その底辺に限りなく安価なwhatとして、排除しつつ組込むのだ。彼らは、このような生活史の中で身も心も切り裂かれてきた。しかし、その深手は、この社会が共謀し、私たちが手を下したがゆえに、彼らの”ひととなり”にすりかえられ、省みられることはない。

 なぜであろう、彼ら=私たちの目の前にいる人々は、限りなく”人間的”である。この社会のなりたちであるwhatでありえないとき、彼らは、その苦悶と哀しみとともに、”ひとはwhoに拠るほかはなく、またwhoとしてのみ、ひととして生きうる”ことを体現しているのだ。

                  ―彼らの前に立つ私たちは―

 介護保険から支援法にいたる福祉サービスの保険化とは何だったのか。福祉国家(幻想)の放棄と福祉の市場化による人間の百円均一商品化である。「障害者」とは保険でも支援の対象でもない。底辺においやられて、収入以前に、基本的人権も生存権も納税させられる人々のことだ。福祉予算とは、その賠償にほかならない。

 つい先頃までのノーマライゼーション・インテグレーションとやらの、お偉い方の百家争鳴は嘘のようだ。その下の根も乾かぬうちに、今や福祉は経営・管理の時代とのたもうた。貧民・「障害者」は生かさず、殺さずの構図は変わらない。
お上から下々までの朝令暮改でコロモの下からヨロイが出ただけだ。「障害者」と呼ばれる人々の前に立つ私たちが、福祉の世界=whatとしてそのヨロイをまとうなら、どうしてかの厚労省氏を嗤うことができようか。

 whoの関係を失い、whatのそれに収縮するとき、個人も社会も崩壊する。他ならぬ、ひととひとのつながり=人間の存在基盤喪失のゆえである。今、”私たちは何をなすべきか”に迷うことはない。私たちはwhatという洗脳的思考から身を引き剥がさねばならない。そして、「障害者」という社会的存在の意味と、生身の彼らとの日々の出会いのうちに、whoという関係を探求することである。なぜなら、
私のwhatは知りえても、私のwhoは相互の質として、他者を介して私に還ってくるからであり、whoという関係、whoという文化は、社会(世界でも歴史でもある)の底辺、辺境、少数の中にのみ生き続けていくからだ。

 福祉とは、お世話をすること、支援することではない。私たちwhatという洗脳的思考から身を引き剥がさねばならない。そして、「障害者」という社会的存在の意味と、生身の彼らとの日々の出会いのうちに、whoという関係、whoという文化は、社会(世界でも歴史でもある)の底辺、辺境、少数の中にのみ生き続けていくからだ。
 
 福祉とは、お世話をすること、支援することではない。私たちwhatである者が、彼らと共に、いかに、どこまでwhoたりうるのかの道行きであり、そのかなたに共在社会を構想することだろう

 あの嘆かわしい厚労省氏がよりどころとする民主主義ではない、本来の民主主義がありうるとしたら、それは他者と共にwhoとして共在するために、何か新しいことを始めることのうちに籠められている。


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