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安心感を返していく <強度行動障害への支援のあり方> その2 =あおぞら 12号= 金沢信一 <内的動因(思い)への支援> 1.支援者は障害を持つ本人の内的な動きに着目した好ましい関係作りを志向しよう 自閉症者などの一部の方は他者からの抑制的な働きかけに極めて敏感に反応を示します。支援者のほんのわずかな内面の働きさえも感じ、読み取ってしまいます。 障害をもつ本人は多分他者に安心できず、他者から抑制的雰囲気を感じるとフラッシュバック的に警戒心が高まり、飛び出し行動が反射的に起こると思われます。支援者側から見ると本人はなんの前触れもなく、ぱっと飛び出すかに見えるのですが、支援者を良く観察してみると違っているようです。 つまり、支援者は本人を見ると飛び出しを感じ、本人を抑えるような動きをしていることが多いのです。そのような抑止的行動は支援者側からすれば無意識的な反射に近いことなのかもしれません。 すなわち、本人の飛び出し行動は支援者の内面の働きに起因し、本人の内面の働きから引き出されているということです。そこで支援者が本人からそのような内面の働きを引き出すことをしなければ、電気の流れのような反射的行動はおこらないということになります。私が経験したこのような方々への支援は、支援者がご本人を脅かすような内面の働きをおこなわないということを伝えることでした。本人への伝達の仕方にはいろいろと工夫が必要でしたが、次第に本人の警戒感が安心感へと変わり、弛緩し、脱力して、不適切な飛び出し行動などは認められなくなってしまいました。 結論として、強度行動障害への支援とは、その激しく表出される行動障害に惑わされずに、行動障害から本人と周囲を守りながら、最初の問題である内的平衡につながる他者との好ましい関係性を構築することです。すなわち、本人との間に安心感を醸成していくという好ましい支援をおこなうことです。ところが、重度の自閉症者に対する激しい行動の抑制、抑圧、拘束など、私からすれば虐待に過ぎないものが強度行動障害への適切な支援であるという間違った解釈をしていることがあります。 先頃問題となった福岡の「カリタスの家」でおこなわれていた虐待行為などはまさにそうしたものであると思います。このような事件は遠い彼方の話ではありません。 強度行動障害者に接している養育者や支援者は強度行動障害者の不適切な行為に対して日頃から悩んでいますので、力による抑制などの暴力的行為を是認するというような状態に陥る危険性があります。 そこで確認すべきことは、「強度行動障害に限らず、自閉性障害の人への支援はその方の行動面に着目するのではなく、その方の内面性についておこなわれるべきである」ということです。 2.本人の主体性に結びついた活動を支援する 自閉症関連施設では作業訓練が盛んにおこなわれているところが多いです。これは作業を通して本人とのふれあいと本人の主体的働きを支えることと考えます。つまり、自立を志向しての活動といえましょう。ところが、人が真似できない、芸当のようなことをさせ、それがあたかも良い支援であるという証であるかのようなこけおどしの言い方には疑問を感じています。 自立とは他者に強いられたものではありません。他人に強いられ、動かされている状態を自立というでしょうか。それは自立に対する妨げ以外の何者でもありません。逆に、本人に何も機会を与えないことも良いことではありません。 さて、本人がなにもせずに寝ているとしてその状態には何の意味もなく、価値もないことなのでしょうか。私には価値がないようには思えないのです。このような議論は本人自身の気持ちを考察する視点が欠落していることからおこるものです。 自己とは、自己決定という前提に基づいていなければなりません。「しごと」をしようとする自己決定は安心感や信頼感を醸成した養育者や支援者の支えのなかでアッハ体験(自分の予想外の好ましい変化にハッと気づくこと)として、また、ピグマリオン効果(「マイフェアレディ」のように、支える人の思いが込められ、伝わり、そして育つこと)として作られていくものと考えられます。 「しごと」体験の中で主体性などという状態とはほど遠いと思われた人がイメージアップし、主体的になり、大きく変わっていくことがあります。それは自閉性障害といわれていた人が障害のない人と同じように夢や希望をもち、伸びていこうとしている存在であることを示しているのです。 <支援者自身の問題> 1.支援者は「思い」のキャッチボールを大切にしよう 本人や支援者の思い(内面の活動)は、そのまなざしや振る舞い、行動、ことば、感情として絶えず表出されています。支援者は、自身の自覚・無自覚に関わらず、ご本人のその場の「思い」を直接受け止め、その思いを取り入れながら自身の「思い」として返す、という「思い」のキャッチボールを絶えずおこなっていく必要があります。 内面の活動は「自己」、「主観」というべきものであり、思いのキャッチボールとは自己と自己との結びつき、「対人関係」、「間主体性」とでもいうべきものではないでしょうか。 2.支援者は当事者にとって外界に対する安全基地でありたい 本人と支援者との関係を考えてみた場合、支援者は本人にとって外界における安全基地なのです。本人は安全基地を拠点にして外界に対して探索的行動をおこない、知的発達を遂げていくと考えます。 外界に困難があり、不安や不快を感じて、危機感や警戒心が高まったときに本人は安全基地に戻ります。安全基地には支援者がいて、本人の内面に抱える不安を安心に変え、不快を快に変えてくれるわけです。 その結果、本人の危機感や警戒感は、安全感・安心感・信頼感・有能感に変化していきます。障害を持つ本人がこのような安全基地となるべき人との関係を有しているかいないかによって本人の外界における活動が決定されていくのです。すなわち、本人にとっての安全基地となることが支援者の大切な役割であるということになります。 このことは同じように支援スタッフ(親や支援者)にもいえることです。親や支援者にとっては安全基地となる後方支援者が必要です。特に、親を支えてくれるひとたちは必要です。親御さんの多くは子供への愛情ゆえに過適応し、強度行動障害と渡り合うためにハイパー化(非常に興奮する)しがちです。親御さんはそうでもしないとやっていけないでしょうからね。しかし、親御さんのそうした状態を戻してくれる後方支援者がいたら親はどんなにか救われることでしょう。自閉性障害や強度行動障害への支援だけではないのでしょうけど、支援スタッフに後方支援基地のような機能があるとよいと思います。 支援者に対しては倫理綱領などで権利侵害にいたらないために重しをかけることは当然ですが、それだけでは十分ではありません。 強度行動障害の人への支援をおこなうことには並はずれた受容力を求められているのです。そこに無理がはたらかないとは限りません。支援者のそうした内面への配慮をしなければなりませんので、後方支援機能は是が非でも必要となるのです。 3.支援者側の不安は行動の異様さと見えにくさによる 私は、「支援をおこなう側は本人に行動障害様の状態が現れるとその原因たる内面の状態に着目せずに、対処療法的になる。すなわち、支援者は原因があって表出された『行動』への抑制的対処をおこないがちである。」ということをはじめに述べました。 行動障害をおこなう人の周囲にいる人からみると、つまり、行動障害を外側から見ると強度行動障害者の行動の異常さに驚かされますし、異様な行動からなにかしら助けなくてはならないことを迫られていることを感じます。しかしながら、なぜそのような行動にいたっているのかは、その行動が大きくなればなるほど見えにくくなっていきます。 さて、強度行動障害に接した場合、支援者にとって異常に見えるものと支援者にとって切迫して感じられるものとを取り上げて考えてみましょう。 (1)安心獲得のための代理行動が異常に見える 周囲の人から異様にみえる行動はその人なりの安定を得るための行動であることが多いように思います。たとえば、手を縛るなどの身体拘束をうけている人がいるとします。これは地域社会の感覚からいえば虐待ともいえる異常なものです。 この件を考えてみますと、不幸なことにその人のこれまでの生育暦の中で人との関係が充分に育っていないからではないでしょうか。すなわち、人を頼りにしながら自らを落ち着かせることができず、身体拘束によってのみ自分を落ち着かせることができると考えられるのです。 つまり、本人は身体拘束により安心感を得て、信頼関係を形成してきたと考えたらどうでしょうか。そんなものは安心感でも信頼感でもないといえばそうかもしれませんが、手を縛って安定している人の縛りを解くことはその人の安定を崩すことになります。 もし、このような認識がなかったらどうなるでしょうか。だれしもすぐさま身体拘束を解こうとするでしょう。ところが、身体拘束を解けばその人はより不安になります。身体拘束を解くことは、その人を拘束から解き放つことにならず、より不安にしてしまうのです。 このような認識が成り立つことも、拘束イクオール、安心感という認識がなければわかりにくいことではないでしょうか。このようなことから支援者は、通常考えられる「良いこと」をおこなえばおこなうほど相手は混乱し、支援者自身もより混乱してしまいます。 さて、ここでお話した「身体拘束」を他の行動に置き換えれば多くの異様に感じられる行動の意味と他者の受け止めによって本人が混乱していくことを理解できるのではないでしょうか。 屁理屈を言っているようですが、実際に支援をしている人にはよくわかってもらえると考えます。たかだかこれだけのことであると考えたり、支援者に「本人が…行動によって安心感を得ている」という理解のあるとなしとでは対応は大きく違ってしまいます。 支援者には良かれと思うことでも相手にとっては安心感を揺らすことであるならば、その行為に対して本人が抵抗することは当然のことであると考えます。一方で、本人のそのような抵抗に対して支援者が苛立つこともまた自然な流れであるといえましょう。 しかしながら、この人たちに対する支援はどうすればいいのかと言えば、言わずもがなのことですが、「本人と支援者の関係作り」ということになることはおわかりいただけると思います。 (2)注意喚起行動や挑発行動は本人の意思が支援者に伝わらないことによる 周囲の人がみていて手をださざるをえない気持ちにさせる行動には本人の複雑な内面とこれまでの人間関係があると考えます。 本人からの単なる要求行動が成り立たないところでは本人自身による注意喚起行動や挑発行動がおこなわれます。しかしながら、支援者との意思疎通がよくなると注意喚起行動や挑発行動は減少するようです。 自傷行為や他害も本人からの単なる要求が満たされていないために起きているというような意味合いを含むことがあります。支援者にはあてつけのように感じられる行動はそのようにしなければ変らない関係性のなかで生じていると考えます。支援者側の本人に対する統制的な気持ち(それが地域社会での常識に基づいた当然のものであったとしても)が背景として存在しているために支援者は本人の気持ちを自然に受け止めることが出来にくくなっているようです。 このように一方(支援者)の主観の状態(思いの状態)が好ましい人間関係の不成立を招き、相手(本人)に伝わることを阻み、そのための代理行動として注意喚起行動や挑発行動がおこなわれるように考えられるのです。 (続く) |
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