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重度訪問介護を使わせて〜  その3  行動援護
        =たこの木通信 237号=


                                                               寺本晃久



「行動援護」というホームヘルプの類型がある。2005年4月から新設された新しい類型である。意思表示、自傷他害、他動または行動の停止、パニックや不穏な行動、不適切な行動、てんかん発作といった障害を持つ、知的/発達障害をもつ人の一部を対象としている(自立支援法では精神障害の人も該当すれば利用可能)。

例として「初めての場所で何が起こるか分からない等のため、不安定になったり、不安を紛らわすために不適切な行動がでないよう、あらかじめ目的地、道順、目的地での行動などを、言葉以外のコミュニケーション手段も用いて説明し、落ち着いた行動がとれるように理解させること」「車道に突然飛び出してしまうなどの不適切な行動や自傷行為を適切におさめること」 といったことがあげ
られている。

介助者には「こうどなせんもんせい」が必要だそうで、支援の経験年数や研修の受講などが必要になっている。誰でも出来るってわけじゃないらしい。

しかし問題行動を止めるのはむしろ簡単だったりする。ただ身体張って止めればいいだけだから。それができないなら、世界を限定するしかない。でも、そんなことだけのために介助者がいるのではないし、そんなことで悩んではいない。

「不適切」とか「問題」だとするのは、まずは周りの人間であって、本人としては何らかの表現だったり文化だったりすることもあるかもしれない(それはやむにやまれぬことかもしれないしある種の生きる知恵や習慣だったりするかもしれない。本人にとって辛いかもしれないし快なことかもしれない)。

予定を伝えるときに「段取りを組んで写真などで順番に伝える」ことで楽になることもあるけど、「まわりの予定」と「自分の予定」との間にギャップがある場合、本人の側がそのギャップを埋めることになってしまわないのかな?伝える側はそれで伝えられて気が済んでしまわないのかな?

介助者に経験が何年あっても研修を何時間受けても、ひとりひとりの好みや生活スタイルや人間関係や困難や悩みやコミュニケーションの取り方を知り、相手も自分をちょっとでも認めてくれなければ、行動援護どころか掃除ひとつできない。言葉で指示してくれればお互いに楽だけど、言葉で言えなかったり、話はできても伝えることが難しかったりとなると、実際に一緒にいろんなことをしてみないとお互いわからない。それにはとても時間がかかる。

「せんもんせい」には、たくさんのわからなさをかかえつつも、一定の空間を共有できる時間、考え続ける時間、それを支えるだけの生活の保障もあると思う。それは社会的な制度の課題でもある。

「危ないから止める」っていうんじゃなく(それもありだけど)、さまざまなことがありつつも、前向きに生きるために何ができるかという視点がほしいです。自傷他害がなくても生きていくのは大変だよね。コミュニケーションが難しいとか、わからないこと決めること考えること気苦労は多いし。どういうところでどういう支援があればいいのかということからたてていくときに、行動援護は使えない。制度の中で、ある種の類型化は認めるが、現状では使いにくさが先に立ってしまう。

行動援護ができる時に、障害者団体から、聞き取り調査の質問内容が差別的だという批判があった。でも、質問の書き方ではなく、そもそもの制度の建て方がずれていたんじゃないか。





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