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(閑話休題) 夜のがいどへるぱあ
        =たこの木通信 238号=


                                                               寺本晃久



イベントの帰りで、たまたま夜遅くなった。せっかくなので、いつもの店に行きたいという。しかし夜22時をまわると、居酒屋をのぞくとたいがいの店は閉まってしまう。

私が「もう閉まってるよ」と言っても、「あそこなら開いてるから」と聞かないでどんどん行こうとする。行ってみると、目指す店はどこも閉まっていた。「なんでだ」と落胆する。

なんとか目的を果たして満足してもらえたが、ふと、夜の町の風景を知らないのかも、と気づいた。

そういえば親元やグループホームにいる人の移動支援をしていても、夜遅くまで出歩くことがあまりない。それが自分にとっても日常になってしまっていたのだ。

親元で暮らしていて、外出に一定の支援が必要な人は、職場との往復と、あとは家族と過ごすことになることが多いのではないだろうか。また、グループホームではたいてい世話人がひとりのことが多いとすると、夜は外に出にくい(出られない)のではないか。作業所の通勤も親がやっていると、夜の風景を見ることはない。

けれども自分を振り返ってみると、学校が終わったあと、何するでもなく外をうろつく、でもすぐ帰宅するのはつまらない。夜中まで酒場やファミレスで話し込んでくだまいて帰宅する。終電がなくなって誰かの家に転がり込んだり、歩いて帰ったり、終電に乗ったつもりが眠ってしまって中央線や山手線を一周してしまう。盛り上がってしまって夜通しカラオケやクラブで騒ぐ。好きな人に思いを伝えられずにもう一軒もう一軒とはしごする……二日酔いで苦しんだり翌日眠かったりすることもあるけれども……なんてことをしながら大人の階段をのぼって、…いくつになってものぼって(笑)…自分の世界をつくってきていると思う。学校に行くとか就職するとかと同じくらい、そうやって自立を模索して行っていると思う。やっていることはくだらないことかもしれないが、とても大事なことだと思う。

こういうことは学校や親は教えてくれない。教師や親も十分身に覚えがあるはずだが、ほっとくと障害をもつ人からこうした体験の機会が奪われてしまうのではないか。ただ、夜はリスクをともなうし、周囲の人も心配するだろう。そこで「夜のがいどへるぱあ」である。

親元や生活寮でくらしている人から移動支援が求められるのは、

  ・休日の日中などグループホームが対応しない(できない)時間の、補完的な支援。
  ・特に児童において、親が用事があるときに代わりに面倒を見る、学童や保育所の代わり。
  ・平日の昼間は作業所や職場などに通っていて、その他の休日の用事や余暇のつきそい。

といった場面の割合が多い。

ひとくちに移動支援といっても、雑多な思惑や意味が投げ込まれている。

役所的に言うと、言葉どおり「移動」そのものを円滑にするということが、まずはあるのだろう。だからどこかにいっても「入り口まで」とかの基準が作られてしまう。道案内をするためには、目的が明確になっていることが前提だが、その目的を形作るためのいろんな体験や情報から遠ざけられているとすれば、そもそも体験したり情報を得たりする段階から支援がなされ、世界を広げていければいい。移動支援はもっと様々なことに使えてよい。

親やグループホームの下請けみたいな移動支援じゃいつまでたっても下請けでしかない。「枠」を超えるためにも、「夜のがいどへるぱあ」をやろう。




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