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座敷に上がれているか

         =サポート研通信 30号より=

                                                   やまびこ工房 中島 博幸


 昔々…

 私が「青い芝の会」を知るきっかけとなったのは、73年5月、ボランティアとして国立市にある滝乃川学園に行き、新築された児童寮のひとつ「双葉寮」を見て(・・)しまった(・・・・)ことでした。18歳の私の目の前の「双葉寮」は金網のフェンスに囲まれ南京錠で施錠されていました。たしか重度棟とか何とか呼称されていたと思います。比較的広い敷地に新築されて間もない寮が点在している中で、ひとつの寮だけが金網のフェンスに囲まれているという、そのなんとも言いようのない受け容れ難い異様さに衝撃を受け、そのフェンスの意味を自他に問い続ける(実際にはもっと泥臭く、もがき続けるという感じでしたが)過程で、映画「さようならCP」や、本「炎群(ほむら)」や「青い芝の会」の活動にも出遭ったのでした。当時滝乃川学園の成人部に勤めていて労組の書記長をされていた柴田洋弥氏にも「あのフェンスは何故なのか。フェンスをなくすように、力になって」と相談に行ったことを思い出します。

 (施設の外から見ると異様に思えるような事象も、施設の中に身を置くと、それが日常の中で特別な事象とは思わなくなり、感覚麻痺が進行していく怖さは、通所の形態ではあれ、私自身が「施設」に勤めて実感させられたことであり、今も実感していることです。)

 さて、昔々…

 青い芝の会と直接かかわりを持ったのは、74年3月22日に「※優生保護法改正(・・)案」の撤回などを求めた対厚生省への要求行動に、一支援者(健全者(・・・))として参加したのが最初だったと思います。その日は、一連の交渉等の流れの中で、厚生省に座り込むことを「青い芝の会」が決定し、私はというと、冷え込む厚生省のロビーで、「けんぜんしゃー!!」と叫ぶ声に呼応して一晩中走り回り排泄等の介助をしたのでしたが、そのとき感じた障害当事者に「使われる心地よさ」は、「あ、これだな」と【あるべき関係性】のようなものを直感的に確信し、そのときの感動にも似た思いに今も突き動かされ続けています。

 「※優生保護法改正(・・)案」→「改正(・・)」の骨子は、人工妊娠中絶を認める条項の第14条4項から「経済的理由」を削除し、新たに第14条4項として「その胎児が、重度の精神または身体の障害の原因となる疾病、または欠陥を有している恐れが著しいと認められるもの」を加えるなどしたものであり、第68国会以降政府案として再三提出されたが、第72国会において会期切れのため審議未了となり廃案(74年6月)になった。

 さてさて、昔々…

 76年に全国青い芝の会連合会(会長横塚晃一氏)が川崎に事務所を構えたときに、「ちょっと手伝って」と声がかかり、それを機に私は事務所の使い走りのようなことを始めたのでした。その事務所は武蔵小杉駅からバスで約20分、バス停から歩いて10分くらいに位置する、風呂もない小さなアパートにありました。

 その事務所で活動を始めた最初のうちは、近所の銭湯に行くのも横塚氏と私、せいぜいあと一人か二人で、他の入浴客ともあまり違和感なく入れていたと思います。あるとき横塚氏の背中を流していると、隣にいた背中に見事な刺青のある入浴客が、「おい!」と声をかけてきたので一瞬どきりとしましたが「兄さんよ。大変だな」とねぎらうように言われたこともあったのでした。

 つまり、時々行っているうちは、珍しいものでも見るような好奇の視線を感じる一方で、「よく来たな」と歓迎してくれる雰囲気も感じられたのですが、その頻度が上がり毎日のように行くようになると雰囲気は変わってきます。

 あるとき、いつものように銭湯に行くとそこの主人が私を呼び止めて、小声で「他のお客さんが気味悪がってるから、連れて(・・・)こないで(・・・・)くれ」と話しかけてきました。私は「皆さんと同じように、一日の汗を流してさっぱりしたいから」と努めて明るく受け流していましたが、そのうち銭湯の壁に『入浴拒否』の貼り紙がされ、そして私はそこの主人から「お兄さん!あんたいい度胸してるじゃないか!」と凄まれるようになったのでした。銭湯に行き一日の汗を流すことに大きな覚悟が必要となってきました。

 バスもまた同様です。事務所を起点に車椅子の方と一緒にバスを利用し始めた最初のころは、呼びかけに応じて運転手や乗客が快く手を貸してくれて、スムーズに乗ることができていたのですが、路線が特定され乗車する頻度が上がってくるとムードは徐々に変わってきます。運転手や乗客の一部からバス会社に苦情が寄せられたことを機に、事実上の乗車拒否をされるようになりました。
 例えば、外出しようと車椅子の方とバス停に行き、来たバスに乗客の手を借りて乗り込もうとすると運転手はエンジンを切りバスを止めてしまいます。そして、他の乗客は後続のバスに乗り換えるよう誘導されます。つまり、車椅子の方がバスに乗ることは他の乗客の迷惑になる、という構図にされていったのでした。

 障害当事者の求めるものが、その時々の「社会」の許容量を超えたとき、社会が牙をむいて襲い掛かってくることを実感した瞬間でした。

 「一緒に街に出ましょう!」と、ともにバスに乗り込んだ車イスの若いCP者が、エンジンが止まりガランとしたバスの中から見た街の風景とは一体どのようなものだったでしょうか…。

 「生きることは戦いだ」とはよくいわれることですが、まさにそれを強烈に実感させられる日々ではありました。

 「肉体の差異によって、あるいは精神のあり方によって自己の存在価値を規定されて、その価値判断の下に、差別、抑圧、抹殺される現状に対して、私たちは毅然とした態度で斗いを進めていかなければならない。(中略)時として、それは『障害者エゴイズム』と言われるような形態をとらなければならない状況もあろう。その『障害者エゴイズム』と私たちを抹殺の対象としている『健全者エゴイズム』との斗争(ふれあい)こそ、私たちを自己解放へと導くための手段となるのだと私は信じている。」(横田弘著「炎群(ほむら)」から「(行動綱領)二.われらは強烈な自己主張を行なう」を解説した文章の一部を抜粋して引用)

 入浴を拒否する銭湯に入浴させよと求め、乗車を拒否するバスに乗車させよと求めた障害当事者の方にとっては、まさに「障害者エゴイズム」と「健全者エゴイズム」との斗争だったと思いますし、私にとっては他者の「健全者エゴイズム」と私自身の中にある「健全者エゴイズム」との斗争の日々であったと思います。そして、それは今日まで続いていると思いますし、これからも続けていかなければならないことだと思っています。

 さて、私たち支援者(健全者)の立ち位置は…

 かの銭湯の主人は、直接障害(CP)者本人に「来るな!」と言ったのではなく、支援者(健全者)である私に向かって「連れて(・・・)来る(・・)な(・)!」と言ったのであり、バスの運転手は障害(CP)者本人に「乗るな!」と言ったのではなく、支援者(健全者)である私に「乗せる(・・・)な(・)!」と言ったのです。またある時、街中のとある飲食店においても、そこの店主や客は食事介助を受けている障害(CP)者本人にではなく、介助をしている私に向かって「施設に連れて(・・・)帰れ(・・・)!」と言ったのです。

 重い言語障害のあるCP者は、たとえ声を絞り出して抗議をしてもほとんど相手にされません。そして支援者(健全者)である私が「この人の話を聞いて」「この人が入浴したいのだ」「この人がバスに乗りたいのだ」「この人が街で暮らしたいのだ」と伝える(代弁する)役割を、結果的にではありますが担うことになります。(同じようなことは、重い知的障害や自閉症の方の支援の際にもよくあることではないでしょうか?)

 銭湯に行く、バスに乗り外出する、といった一般の人(健全者)にとってごく当たり前の行為が、「社会(健全者)」の側の許容量を超えて「斗争」へと発展していくとき、私たち支援者は時として「社会(健全者)」の側から優性思想に貫かれた障害者への差別や侮蔑、憎悪に満ちた激しい言葉を浴びてしまうことがあり、時には暴力さえ受けるような場面に遭遇することもあるのです。それに果たして耐えうるのか、もっと言えば耐える必要があるのか、という疑問を抱くかもしれません。そうしたことも含めて、自らの内に息づく「優性思想=健全者エゴイズム」と激しくせめぎあうことになるのです。

 そうした社会との斗争(ふれあい)の日々のさ中に、事務所には励ましの電話とともに恫喝するような電話もよくかかってきていました。あるとき、障害者の存在を全否定するような激しい罵声やひどい暴言を浴び、口論となった電話の後で、たぶん私が辛そうな表情か、態度をしていたと思うのですが、そんな私に横塚氏は「中島君はまさか心のどこかで自分が正しいことをしていると思っているんじゃないだろうな。世の中では、多数者の意見や価値観こそが正義であって、圧倒的に少数者である我々の意見や考えは基本的に『悪(・)』なんだ。要するに、我々のやっていること、やろうとしていること、つまり、この世の中で重い障害をもった者が胸を張って生きたい、街中で当たり前に暮らしたいというのは悪い(・・)こと(・・)なんだ。だから、拒絶されたり否定されたりするのは当然なんだよ。その認識を基礎に物事を考えるように」といったような話をされたことがありました。

 「悪い(・・)こと(・・)をやっている」この言葉を噛み締め幾日も反芻していると、自分の許容量が少し増えたような気がして肩の力も少し抜け、それとともに覚悟(・・)もまた深まったような気がしたものでした。

 「経済的に恵まれない我々に向かって集めた金で旅行することが悪いというならば生活保護や年金で結婚し子供を作るなどということは大変いけないことであり、成人して三十、四十になってもなお親に食わせてもらうのもいけないことになる。生活保護費は税金として強制的に国民から取り上げたものの一部であり、親の働きは本人の働きではないのである。そういうならば我々働けない者は生きていること自体贅沢だということになる。「なにもそこまで言ってやしない」と言うだろう。が、そのそこまでという言葉の中に残忍なまでの差別意識がひそんでいるのに気がつかないのだろうか。もう少し説明するならば「お前達は情けを以て生かすだけは生かしてやるが、基本的人権がどうの、勉強がしたいの趣味を広めたいの、旅行に行きたいのなどと言ってはいかんぞ」ということ、つまり「庭先までは入ってもいいが、そこで土下座していろ、廊下や座敷へ上がることはまかりならん」ということなのである。この差別意識は今までの社会では残念ながら常識として通用し、我々障害者の上におおいかぶさってきた。」

 これは横塚氏が70年に書いた言葉の引用ですが、37年を経た今日の常識は、果たしてこの当時の常識を覆すことに成功し、差別意識は大幅に軽減されていると言えるのでしょうか。

 その時々の「社会」の許容量を超えたとき乃至は超えようとしたとき、社会はその本性を現すことを、例を上げて書いてみましたが、措置制度から支援費制度になり、それまで抑えられていた潜在的ニーズが急速に拡大した状況をこそ「許容量を超えた」と社会は捉えたのではないでしょうか。それは、横塚氏の言うところの「庭先までは入ってもいいが、そこで土下座していろ、廊下や座敷へ上がることはまかりならん」ということなのであり、まさにお上から「調子に乗ってはいけない」として示されたものが「障害者自立支援法」に他ならないのではないでしょうか。

 そうであるからこそ、応益負担を課す、障害程度区分認定の仕組みを作りサービス利用を限定する、移動支援を個別給付からはずす等々、まるで「戒め」として発想されているようにすら思われるのです。




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