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                                                            <2008年2月3日サポート研公開セミナー講演>
関係障碍と関係発達支援
 
=障碍のある人の主体性を育む支援=
    
                                                     中京大学   鯨岡 峻


1.はじめに

 事務局から難しいテーマを与えられましたが、今回の講演で皆さんに伝えたいことはそれほど難しいことではありません。「人は誰しも周囲の人たちとの関係の中に生きる」という当たり前のこと、そしてそれを少し言い換えた、「自分が一個の主体として生きていることを周りから受け止めて欲しいように、相手もそう思って生きているのであり、そういう人間同士が関係をもって共に生きる上では、相手を自分なりの思いをもって生きる主体として受け止め、自分の主体としての思いを相手に伝えることが人間関係の基本」という当たり前の考えをお伝えしたいだけです。

 いうまでもなく、ここには「障碍」の文言はでてきません。ということは、私の考える支援の姿勢は障碍への特別な支援の方法を考えるというものではなく、むしろ障碍のあるなしにかかわらない、人が周囲の人と共に生きるという当たり前のことのなかに、障碍の問題を含めて考えて行きたいということでもあります。しかし、その素朴な、当たり前と言ってよい考え方がなぜか今の日本文化の中では理解されないようで、そのために、あれこれ難しい議論をして、その「当たり前の」ことを訴えなければならないのです。実際、自分が主体として受け止めて欲しいということは誰もが思っているのに、しかし、相手を主体として受け止めることができずに、もっぱら自分の考えを相手に押し付け、自分の考えで相手を振り回す人が、いま日本にいかに多いかを考えれば、この「当たり前」が理解されない現状がわかるのではないでしょうか。そして、障碍のある人の支援に当たる人は、何よりもこのことを真剣に考えるのでないと、支援の出発点でつまづいてしまうように思います。「社会的スキルの定着」や「プログラム対応」を中心に考える人たちは、その対応のなかに人を操作したり、制御したりする姿勢を助長する面があることをどのように考えているのでしょうか。

 ともあれ講演の中身に入る前に、どこに支援の出発点を求めるか、そこを十分に考える必要があるという点に注意を喚起したいと思います。


2.時間横断的な人間理解か、時間縦断的な人間理解か


 障碍のある人を含め、人間一般を理解しようというときに、私の見方では大きく二つの理解のあり方があるように思います。そのひとつは時間横断的な理解とでもいうべき理解のありかたであり、いま一つは時間縦断的な理解とでもいうべき理解の在り方です。この両者は単に「あれかこれか」ではありませんが、後者は前者を包含できるけれども、前者が後者を包含することは難しいとは言えるのではないでしょうか。このように人間理解のあり方時間軸を意識して二分してみると、いろいろなことが見えてきます。

(1)従来の障碍理解は時間横断的な理解が一般的であった

 脳性マヒであり、ダウン症である、聴覚障害である、等々、原因系のはっきりした障碍の場合、その障碍に貼り付けられたラベルは、それだけで障碍の特性を明らかにしたことになり、したがって、そのラベルの確認がその人を理解したことと等値される傾向にあります。本当は、その原因となる障碍を抱えてその人がその人生を繰り広げていくにもかかわらずです。そして、肢体に生じるマヒをどのように改善するか、知的障碍に対してどのような知的、社会的能力の定着を図るか、聴覚障碍に対してどのような補償的機能の定着を図るかが、その支援だというふうに考えられてきたのでした。ここにも、その人の長い人生を展望した支援、さらには心への支援という観点は希薄で、いま現在生じている目に見える行動上の問題点にいかに対応するかという意味で、やはり横断的な理解が中心だったといえます。

 この横断的理解が何よりも強く現れてくるのは、「症候群診断」によって障碍が判定されるタイプの障碍です。言うまでもなく、自閉症圏の障碍がそれです。症候群診断のかたちこそ、時間横断的な障碍理解の典型だといってもよいと思います。つまり、症状形成のメカニズムも明らかでなく、また時間経過の中でその状態像がどのように変容するかも明確でないままに、現在示される状態像(症候群)によって、その障碍を特定し、そのことによってその人を理解したと思い込む図式がそこには含まれているからです。

 他のところで書いたように、それの凝縮されたかたちは、症候群のマニュアルに従って(つまり、その人が現にいま呈するさまざまな行動特徴によって)、自閉症なら自閉症、ADHDならADHDと障碍を診断しておきながら、今度はそれをひっくり返して、その人がそのような行動を示すのは、自閉症だからだ、ADHDだからだと言うところに、横断的な見方が典型的に現れているといってもよいかもしれません。つまり、時間横断的な理解のあり方が、結果を原因と置き換える操作を簡単に許容してしまうのです。

(2)時間縦断的に捉えるとは

 人を時間縦断的に捉えるとは、その人の「発達の経過」を捉えるということを意味します。ただし、ここでの「発達」は従来言われているような「できることの増加リスト」のような発達ではなく、人が時間軸の中で身・知・心の面に幾多の変化をみせながら成長・変容するという素朴な事実を掬い取ろうとする意味です。「診断的理解」や「特性理解」といういま流行のあり方は、繰り返すように、人の「いま、ここ」の状態像を横断的に見る見方によるものでした。それとは対照的に、私は一人の人間を時間軸に沿って、その発達の経過を中心に理解する必要があると主張してきました。これは健常な子どもの場合も障碍のある子どもの場合も同じです。後で見るように、障碍が何であれ、障害のある人の呈する状態像は、それがどんな障碍であれ、「発達の経過の中で形作られたもの」を含むと理解する必要があるのです。それを私はこれまで「障碍はすべて<発達性の障碍>を随伴する」と表現してきました。そしてそれが時間縦断的な理解に対応しているのです。この「発達性の障碍」の考えに、冒頭で触れた「人は周囲の人との関係の中に生きる」という考えを挟み込めば、それが同時に「関係性の障碍」を随伴することも見えてくるはずです。

 いま、「発達性の障碍」と「関係性の障碍」という言い方をしたために、この二つは別個のもののような印象を持たれたかもしれませんが、同じ一つ貨幣の表裏の関係と考えていただければよいかと思います。「発達の経過」は周囲の人とどのように関わってきたかという関係性を離れては考えられませんし、また「関係性」のいまのありようは「発達の経過」という時間軸の中での関係の蓄積を離れては考えられないからです。

 私は、障碍児・者の支援の現場は、障碍のある人に長期間に亙って関わり、したがって、時間経過の中での変容を見やすい立場にあると思いますから、現場感覚としては時間縦断的な理解が自然だろうと思っているのですが、現実にはそうでもなさそうで、特に最近の「特性理解」とそれに基づいた対処法という考えが現場に深く入り込み、その結果、障碍のある人の現在の状態像を「発達性の障碍」と「関係性の障碍」が絡み合ったものと捉えるのではなく、むしろ脳に原因があって、そのような状態像がもたらされるのだという考え方に流されていってしまうようです。どうしてそういう流れになるのかを、前回お話したものを繰り返すかたちで示してみたいと思います。


3.横断的理解は脳障害説と結びつきやすい


 自閉症圏の子どもや大人など、いわゆる「発達障碍」と言われている人たちの診断は症候群診断によっています。ということは、いまの状態像を規定する直接の原因ないし素因を特定できないということでもあります。つまり、診断という枠組みでは、「いま、ここ」に示される子どもの状態像を所与の症候群診断基準とマッチングして、例えばADHD診断することです。そのときのADHDという診断名は、その子のいまの状態像に貼り付けられたラベルに過ぎません。ところが、親も教師も果ては医者までも、いつのまにか「いま、ここ」でこの子の示す状態像はADHDによってもたらされたのだ、と理解することにすり替えられます。「いまの状態像は分類基準によればADHDですね」というのと、「この子はADHDだからこの状態なのですね」と理解するというのでは大違いです。にもかかわらず、このすり替えが横行しているのです。みなさんは如何でしょうか?

 同じことが脳研究にもいえます。ADHDと診断されている子どもの脳の活動を最新のFMRIという装置で調べたときに、健常な子どもとは異なる脳部位の活性化が認められたとしましょう。この場合、子どもの状態像がこのようであるときに脳の活動はこのようであるというふうに、今の状態像と脳の活動のあいだの平行関係が示されたということが、本来あるべき理解のかたちです。ところが議論は、脳がこのように活性化しているから、子どもはこのような行動を取るのだというふうに因果関係にすり替えられてしまうのです。

 このような議論が繰り返されるのは、素因ないしは原因系としての障碍(impairment)があって、そのために脳の働きに障碍が生まれ(disorderないしはdisfunction)、そこから行動障碍や能力障碍(disability)などの顕在的障碍がもたらされ、生活する上での困難(handicap)がもたらされるという線形モデルが多くの人に暗黙のうちに了解されてしまっているからです。しかしながら、そのような暗黙の了解に示されている線形モデル(a)impairment→disorder(disfunction)→disability→difficulty of life に含まれる「→」は常に右向きの矢印なのかどうかは本来もっと突っ込んで議論する必要があったのではないでしょうか。つまり、本来図式は(b)impairment→disorder(disfunction)⇔disability⇔difficulty of life というように、逆向きの流れを含むかもしれない可能性を十分に吟味してみる必要があったのではないでしょうか。

 個体論的な観点から発達や障碍を考える立場からすれば、時間経過と共に矢印が右側に線形的に進むと想定するのは容易かもしれません。しかし、関係発達論的な観点からすると、矢印が逆に右から左に進む可能性は十分にあり得ます。つまり、たとえ最初のきっかけはimpairmentであったとしても、その後の「育てられて育つ」という関係発達(時間経過)の中で、結果として生じたdisabilityが周囲の困難を導き、それによって周囲の人の情動が負の形で動き、それが子どもの情動系に負の影響を及ぼして、二次的にdisorderやdisfunctionが導かれ、それがさらにdisabilityをもたらすという悪循環や負の連鎖を引き起こすことは、十分に考える余地のあることです。つまり、現にいま出会う子どもの状態像は、そのすべてが素因からの直接的な結果ではなく、時間経過の中で(発達性の障碍)、また周囲との関係を媒介して(関係性の障碍)、負の状態が増幅された結果もたらされた状態像である可能性は十分にあります。

 現に最近の脳研究の中には、対人不安や対人ストレスによって負の情動状態に長く置かれ続けると、脳の機能が損なわれ、さらには脳の部位に異変が生じる可能性を示唆するものさえ報告されています。また発達障碍臨床の現場からは、学校や保育の場において大人や周りの友達と関係をとることの難しさ、また親や家族と関係をとることの難しさによって、子どものdisabilityがさらに増幅し、それによってさらに関係が難しくなるという悪循環がしばしば報告されていますし、その逆に、関係が改善されることを通して、能力の向上が見られるなど、よい循環が巡ることもしばしば報告されています。

 そうしてみると、障碍を矢印が右方向に進む単純な線形モデルで考えるか、矢印が逆方向に進む可能性をも考えるかによって、障碍の理解が大きく異なってくることがわかります。視点をずらせば、状態像に基づく症候群診断として出発したいわゆる「発達障碍」の概念は、そもそも、発達という概念、つまりは「時間経過」を真剣に問い直した概念だったのかどうかという疑念にも結びつきます。発達は確かに時間軸を前提とした概念です。しかし、子どもの発達は、単に個体の内発的な力(脳の活動)が時間軸に沿って現れてくるという単純な性格のものではありません。そこには周囲からの「育てる」営みが介在し、その影響を大きく受けながら、子ども側はもちろん、育てる側も時間経過と共に変容していく過程です。逆向きの矢印はこの関係性の問題を強く示唆するものです。単純な線形モデルを脱して両方向を視野に納めたモデルの可能性を考えるということは、すなわち発達や障碍を関係論的に考えることを意味します。このとき、いわゆる「発達障碍」という概念はこれまでとは違ったかたちで理解されることになるはずです。


4.すべての障碍は発達障碍である


 さて、これまでの議論を踏まえると、従来の障碍概念そのものの狭隘さが浮き彫りになります。例えば、ある生得的な障碍(impairment)を抱えて誕生した子どもに時間経過の中で行動面や能力面にさまざまな障碍(disability,disorder)が現れてくるというときの、その「時間経過の中で」という表現が大変微妙です。発達初期の躓きは「時間経過の中で」次々に二次的、付加的な躓きを呼び込まずにはおきません。つまり、「時間経過の中で」の意味には、本来、親をはじめとする周囲の人の育てる営みが入り込み、それによって「ある状態になる」ということが含まれているはずです。言い換えれば、子どもに現れるdisabilityやdisorderの状態は、これまで繰り返し述べてきたように、そのすべてがimpairmentによって規定されるものではありません。そこには育てられた結果、二次的、付加的に積み重なってきたものが含まれているのです。例えば、親や療育の立場の人たちの「子どものために」という善意の思いを背景にした強い「させる」働きかけが、その願いとは裏腹に、二次的、付加的にその子どもの負の情動を強く喚起し、そのことがいまの状態像を憎悪させる可能性は十分にあるといわなければなりません。そのことを含め、「時間経過の中で」その意味を十分に煮詰めて考えれば、発達初期に現れた障碍はすべて、発達性の障碍、つまり、「時間経過の中で」負の面が増幅される可能性をもつという意味での「発達障碍」であると言わなければなりません。

 さらに、子どもは周囲他者との関係の中で心を育みながら成長します。このことを踏まえれば、従来の障碍概念のもう一つの問題点が見えてきます。従来の障碍概念は、なにができないか、どういう困った行動を示すかというように、あくまでもimpairmentを中心に健常な子どもとの比較の中で、断片的な行動面、能力面でのdisabilityやdisorderを捉えるものでしかありませんでした。しかし、障碍を負った子どもを間近に見れば、能力面ばかりでなく心の面にも難しさを抱えていることは明らかです。

 要するに、大変おかしなことですが、「あれこれの心をもって今を生きる一人の子どもの全体像」を捉える視点が従来の障碍概念にはなかったのです。一方、子どもの心の面に目を向ければ、そこに周囲の人との関係のありようが流れ込んでいることは明らかに見て取れるはずです。

 例えば、障碍が発見されたときの親のショックや焦りなどの負の心の動きが子どもの心に流れ込み、その結果、子どもの心が輝かないことがどれほど子どもの能力面の育ちに負の影響を及ぼすかを考えてみればよいと思います。逆に、周囲の支えによって親の心に余裕が生まれ、子どもと共に生きる前向きの姿勢が強められると、親のその肯定的な情動の動きは容易に子どもに浸透し、子どもの心も躍動し始めて、潜在していた能力が顕現することさえ稀ではありません。

 このように、障碍の概念そのものを見直し、障碍を「発達性の障碍」と「関係性の障碍」が撚り合わされたものと考えると、一人の障碍の子どもや大人の見方が大きく異なってきます。この観点から今流布されている「発達障碍」の概念を考えると、それへの違和感が際立ってくるのではないでしょうか。

 私の主張する関係発達の視点に立てば、まず人間という存在は、誕生から死に至るまで生涯に亙って時間軸に沿って成長・変容を遂げていく存在です。その成長・変容は、身体運動能力や知的能力の面に現れるばかりでなく、心の面にも現れてきます。このように人間の一生涯に亙って時間経過の中で身・知・心の面に成長・変容が現れてくることを大きく「発達」という概念で括ってみれば、「発達障碍」とは一人の人間の時間軸に沿った成長、変容の過程において、身・知・心の面に通常とは異なる歪みやつまづきなどの負の様相が現れ、しかもそれが一過性に消退せずに、その後の成長・変容に何らかの影響を持続的に及ぼすことであると考えることができます。

  私にとっては、これが「発達障碍」のもっとも素朴かつ包括的な定義です。この概念の下には、これまで「障碍児」と呼ばれてきた子どもたちのすべてが包摂されることはいうまでもありません。しかし、そればかりではなく、身体運動面、知的な面に問題を抱えていなくても(従来の考え方からすれば「障碍児」とはみなされなくても)、虐待などによって心の面にいろいろな困難が現れて、それがその後の成長に負の影響を及ぼす子どもたちの場合も、この概念の中に包摂されてよいことになります。そして、成人に達して行動障碍を呈するおゆになった人の場合に、多かれ少なかれ虐待に近い状況が過去および現在にあったことが示唆されることを考えると、心の面の問題が「障碍」という概念の中でもっと重きを置いて考えられなければならなかったのではないでしょうか。

 要するに「育てられて育つ」という時間経過の中で、子どもの「育つこと」、親や周囲の人の「育てること」に何らかの持続的な困難が現れてくる場合に、それを広く「発達障碍」と理解すれば、障碍の概念には、能力面の困難ばかりでなく、心の面の困難も含まれ、それゆえに子どもに関る周囲の人たちとの関係のありようが問われ、「関係性の障碍」が浮き彫りになると思うのです。その限りで、すべての障碍は発達障碍、それも関係発達障碍と呼んでよいというのが私の立場です。以上の議論を踏まえて、関係発達支援の問題に話を移したいと思います。

 
5.支援者も主体


 「支援者も主体」というと、すぐに誤解されかねません。「自分の思い通りにやっていいだな」という誤解です。それは「主体」という概念の誤解から来ています。主体であるとは、相手を主体として尊重できることが大前提で、その上で自分の思いを相手に伝えることができるという意味です。プログラムに従って、効率よく利用者さんを動かすべく、次々に指示を出していくのが「主体的」なのではありません。あくまで利用者さんの思いを受け止め、その上で、それを受け入れたり、拒んだり、別の方向を示唆したり、お願いしたりという柔軟な対応ができることが「主体的である」ということの中身なのです。

 これまでの議論を踏まえれば、成人に達した障碍の方は、これまでたくさんの発達性の障碍と関係性の障碍を溜め込んで今に至っている人がほとんどです。にもかかわらず、それがみな「障碍だからそうなのだ」と理解され、「社会的スキルを身につける」ために、「社会的自立を目指すために」というふれ込みで、さらにたくさんのことを「させる」ことが支援者の主体性であるかのような理解は、この節の見出しにはまったく逆行するものです。

 そのとき、支援者の主体としてのありようが問われていることになります。つまり、利用者さんを意のままに動かそうとする前に、自分の中で対応を変えていかねばならないと思ったり、相手の気持ちに寄り添う姿勢を強めていかなければと思ったりすることが必要になってくると思うのです。それが関係性の障碍を縮小することにつながり、結果的に、利用者さんの生活がしやすい方向に変化が生まれてくることを期待することができるように思うのです。

 ちなみに、私が信頼する一人の支援者が、難しい自閉症の方に接するときの心構えのようなものを自分の経験から語ってくださったことがあります。それを聞いたとき、それは本当に納得できる内容で、それはその人が一個の主体として利用者さんの前に立てるからだと改めて思いました。「支援者も主体」とは、以下に述べるようなことを実践できる人のことです。そのときの話を簡単にまとめてみます。

(1)自分のそれまでの考えを脇に置いてみる=自分の考え方を変える
 具体的には、これまで安易に「だめ」といっていたことを考え直し、「だめ」をできるだけ減らして、「だめ」の基準をぐっと引き下げること。利用者さんは支援者の「だめ」を決してよい気持ちでは受け止めていない。とくに、何かをしようとしているときに危ないからといってすぐに「だめ」と言わない。「危ないから」、だから「だめ」というのだというけれども、たいていの危ないことは利用者さん自身が知っている。言うなら、してしまってから言ったほうが、こちらの「だめ」が伝わる。

(2)相手のこだわりにこちらはできるだけこだわらない
 相手のこだわりを気になるからといって、無理にそれを無くそうとすると、相手との関係がうまく展開しない。こちらが困ってしまうこだわりのときは、むしろそこにあまり目を向けず、それ以外のわかりやすい部分、あるいは共感しやすい部分(トイレ、入浴、食事、添い寝、怪我の手当てなど)で関係を積み重ねていくことに努める。「分かり合う」ことの積み重ねが、長い目で見れば「こだわり」を必要としなくなることに通じている。例えば、相手がドアを閉めることにこだわっていれば、どうしてそれにこだわるかと詮索するのではなく、生活に支障がなければ、閉めてあげればよい。どうしてもこちらが困るときには、相手にお願いしたり、遊びに切り替えたり、自分が別のドアから入るようにしたり、そうやって、いろいろ考え、こちらの固定観念を取り払おうとしてみると、「ああ、こういうことが気になってこだわっていたんだ」と分かることが多い。

(3)相手に何かを伝えるときには、真剣に、直球で、短く、簡潔に
 「どうせ言っても伝わらないだろう」とは微塵も思わない。必ずこちらの気持ちは伝わると思って真剣に伝える。それが相手を主体として尊重していることの現れである。そのとき、こちらも揺らぐことなく腹を括っていることが大切。表面だけ優しい人はだめ。利用者さんはみんな気持ちの上でまっすぐに向き合ってくれる人が好き。そしてこちらの気持ちを見抜く力は普通の人以上だということをわきまえておくことが大切。

(4)大概の利用者さんは、聞いていないようでも聞いている
 正面から話すと嫌がる人には、背中越しに話しかける。また大概の人は地獄耳なので、本人に聞かれたくないことは本人の前では話さない。言葉が十分でないから分かるはずがないというのはこちらの思い込みで、大概の利用者さんはこちらのいうことがとてもよく分かっている。話の中身は正確には分かっていなくても、それが肯定的な内容か否定的な内容かに関しては非常に強い感覚があり、そこを分かっていることが多い。

(5)課題場面に強引に向かわせない
 逃げるからと追いかけるとさらに逃げる。行く手を塞ぐと、目を閉じて寝てしまうなど、引き篭もることに通じる。逃げてしまって探しに行くときも、「連れ帰る」という発想ではなく、「迎えに来たよ」と発想することが大事(大抵は逆に迎えに来てくれるのを待っているので)。この「連れ帰られるのか」「迎えに来てもらえたのか」の見極める力は、利用者さんたちは非常に鋭く、私たち支援者の比ではない。

(6)しんどい場面からどうすれば、「向き合ってみよう」と思えるようになるか
 「自分は頑張っているのにどうして?」と思ってしまうときは、たいてい、自分の言葉は相手に届いていないし、関りも上滑りになっている。逆に、「自分はしんどい場面から逃げているな、避けようとしているな」と感じられたとき(意識されたとき)、「ああ、まただあー」と笑ってしまうことになるが、このときに「腹を括る、向き合う」という構えで、そしてそのように思えるようになってみると、体から妙な力が抜け、リラックスしているのに、体の芯だけがぐっと締まる感じになる。しかし、そうなったとき、相手との関係はぐっと変わってくる感じになる。

 さて、実践の立場のみなさんは上記の内容をどのように受け止められたでしょうか。私にはこれが「関係発達論」の具体的な内容だと思われますし、これ以上に関係発達論を具体化してお話することは私にはできません。あえて言えば、この(1)から(6)までに記されていることは、利用者さんとその場を「共に生きよう」とするときに、おのずと導かれてくるもののように思われました。私たちが周囲の人と共に生きるとは、私たちの思い通りに相手を振り回すことではありません(その緒ようにしたら相手はきっと逃げ出していくはずです)。しかし、だからといって、相手の思いにただひたすらこちらが従うのでもありません(それをすればこちらが潰れるでしょう)。人が人と共に生きるとは、ですから、冒頭のところでも述べたように、お互いに相手を主体として尊重するという相互性のなかでしか成り立ち得ないことなのです。
 その観点から考えるとき、社会的スキルを身に付けさせる、プログラムに効率よく従わせるという、現在の多くの施設が取っている動向は、関係をさらにこじらせることには繋がっても、関係の改善に繋がらないのではないかと思うのですが、どうでしょうか。



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