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コンビニにおける無銭飲食を意思決定支援の観点から考察するとどういう未来社会のグランドデザインが描けるか

                                                                 小林博


 2月17日のサポート研のセミナーでは第5分科会に参加した。「意思決定支援」がテーマであった。後半のフロアを交えての討議ではいろいろな議論が噴出して、大変刺激的であった。議論を聞いているなかで、ある思いとアイデアが浮かんだ。思い切ってその内容を言葉にして、会場で発言しようと思ったのだが、それは控えた。
 うまく論旨がまとまらなかったということもあるのだが、それ以上にその内容が、我ながら余りに妄想モードであったからだ。でも、「真理は妄想から生まれる」という諺があるように(そんなのないね)、この妄想は捨てがたく自分の中でふくらんで行き、今日に至っている。その妄想を何とか、言葉にしてみたいと思う。

 まず、一言でテーマを呈示してみる。

「コンビニにおける無銭飲食を意思決定支援の観点から考察するとどういう未来社会のグランドデザインが描けるか」

 知的障害者の支援をしている人なら、誰でも二度や三度経験していると思う。近くのコンビニの店主から電話がかかって来る。
「おたくの施設の人だと思うんだけど、棚のチョコレート食べちゃってね、迎えに来てくれます?」
「ありゃー、Aさん、またやったね」と半分まずいなと思いつつ、でもあと半分では、「Aさん、頼もしいね、これでいいのだ」とも思いつつ、コンビニに向かう。店主に低姿勢で謝り、チョコレート代をAさんの代わりに支払って帰ってくる。
 このAさんの行為は、店主の側から見れば「無銭飲食」である。Aさんの立場を代弁して言えば、「大好きなチョコレートを食べただけ」であろう。今や消えつつある、旧来の施設用語を使えば「問題行動」となる。今風にカッコつければ、「バリアフリー・コンフリクト」とでも言えるかもしれない。
 
 さて、この「チョコレート食い」は、どう解決されてきただろうか。
 一次的対応としては、上のように取り敢えず、コンビニ側に謝って、代金を立て替え払いして帰ってくる。その後、職員による支援会議が開かれ、この問題に対する解決策が議論される。大ざっぱに想像すると、多分次の4つくらいのパターンの解決策が呈示されるだろう。

@コンビニに迷惑をかけるから、Aさんを外に出さないようにする。具体的対応としては施設の門に鍵を掛ける。
A門に鍵を掛けるのは人権上問題があるから、施設内でAさんになるべく目配りをし、外に出ようとしたら説得して出て行かないように引き止める。
BAさんが外に出る(コンビニに行く)意思(気配)を示したら、職員がそれとなく同行し、Aさんの出来ない部分(レジでお金を払う)を職員が代行する。
CAさんに対する「買い物支援」のプログラムを作成する。最初は同行して、金銭支払いの代行をするが、最終的には自分一人で支払いが出来るように支援しながら練習してもらう。

@は今時論外でこういう対応をするところは例外的な施設と思いたい。Aの対応も少数派だろう。多くの施設がBかCの試みをするというのが、現在の知的障害者支援の実際だろうと思う。私の施設でも、Cの対応を粘り強く、2年半あまり続けて、ついこの間から、一人で買い物に行けるようになった利用者がいる。職員の達成感はとても大きく、「一人で買い物行けるようになったね、みんなで頑張って支援した甲斐があったね」と喜びあったものだ。

 さてさて、私が妄想したのは、「チョコレート食い」に対して、こうした今までの支援方法に変わる、全く別の解決策がないのか、ということである。「知的障害者の意思決定支援」ということを本気で考えるなら、上記4つの支援方法と根本的に発想を異にする、「第5の道」があるのではないか。

 あったり前の話だが、上記4つの解決策は、「物を買ったらお金を払う」ということを前提としている。商取引というのか売買契約というのか、もっと一般的に契約行為というのか、「物を買ったらお金を払う」というのは近代社会の根幹をなす大原則である。
 ところがAさんには、このあったり前の話が通じないのである。この通じなさ加減を、私たちはずっとAさんのせいにしてきた。近代300年の歴史を通じて、ずっとAさんのせいにしてきたのである。そのAさんのせいにされた、通じなさ加減を我々はきっと「知的障害」と名付けてきたのだろうと思う。
 通じなさ加減というちょっと奇妙な物言いをしているのは、「物を買ったらお金を払う」というあったり前の話がAさんに通じないという事態を、Aさんだけのせいにするのをなんとかヤメにできないか、と思うからである。

 と、ここまで書いてきて先に行き詰まった。こういう時は、いつも「逃げの読書」に走る。手元にあった別役実『思いちがい辞典』をぺらぺらと読む。おお、逃げの一手は打ってみるものだ。見事に助け船が出た。この本は、いつもの諧謔に満ちた別役レトリックでいろんな言葉を擬似辞典風に解説しているのだが、「トウヘキーーー盗癖」という項目が目についたのである。

「昔はなかった」とものの本には書いてある。そりゃそうだろう。それが問題になるのはものに所有権というものが認められて以来のことである。それ以前は単に「手に入れる」というだけの意味であり、そのあたりにあるものは誰でも自由に「手に入れる」ことができたのであるから、「採る」もしくは「取る」という字句がこれに当てられていた。ものに所有権が認められ、それに同じ音ながら「盗る」という字句が当てられることになって、行為にひとつひねりが加えられることになったのだ。

 そう、Aさんはただ、コンビニの棚から大好きなチョコレートを「取った」だけなのである。その自然な行為を「盗った」という犯罪として規定してしまうのは、ものに所有権を認める近代社会のシステムそのものである。
 障害の社会モデルと言い、知的障害者の意思決定支援と言うなら、Aさんには「物を買ったらお金を払う」という理屈が通じないという、この事態に正面から向き合うことが必要なのではないかと思うのである。
 我々がとっている支援方法は、Aさんの行為を「盗った」とする社会システムの枠組みの内部にある。それは当然と言えば当然なのだが、でも、上に書いた通り「Aさん、頼もしいね、これでいいのだ」という素朴な実感も支援者の側にはあって、そこには、Aさんの行為を「盗った」から「取った」に差し戻そうとする無意識の近代社会への抵抗感のようなものが潜在しているのだと思う。
 第5の解決策、支援方法とはどんなものになるのだろうか。「物を買ったらお金を払う」というあったり前の理屈がAさんには通じない、その通じなさ加減をAさんの知的障害のせいにしないで、フェアにその事態に向き合おう。「盗った」を「取った」に差し戻して、Aさんの側に立つとすると、「物を買ったらお金を払う」という原則そのものをいったん括弧に入れて、チャラにしないと話が進まなくなる。

 ここいらから話は、妄想じみてくるのである。こんな案はどうだろうか。
DAさんには自由にコンビニに行ってもらって、自由にチョコレートを取ってもらう。それを目撃した店主は、その代金を「つけ」にしておいて、しかるべく登録して置いたAさんの預金口座に請求して、引き落としてもらう。
 
 この案のミソは、いちいち店主は「無銭飲食だ、万引きだ」などと騒がないで、Aさんの行動パターンをそのまま容認し、施設職員や増しては警察などには通報しないことである。店主は良くAさんと馴染んでいることが前提で、さらに「その場でもらえなくても、あとでお金はもらえる」という安心感を店主に持ってもらえるような自動引き落としなどの仕掛け作りが肝要である。
 でも、よく考えるまでもなく、これはまだまだ「物を買ったらお金を払う」という近代社会の原則の枠内から発想している。
 
どうせ妄想するなら、もっと過激にやろうじゃないか。
EAさんが棚からチョコレートを取ったら、それは「盗った」のではなく、文字通り「取った」のであるから、Aさんには代金は請求しない。つまり、そのチョコレートは、Aさんにタダであげることにする。

 これはざすがに無茶苦茶である。でも、300年くらい先を見越した未来にはこういうことが可能になる社会があってもいいと、結構本気で思っている。

 意思決定支援という主題から遠く外れた話になっていると半ば自覚はしているのだが、でも一方で、Aさんの「チョコレートを取る」という純然たる行為をAさんの掛け替えのない意思決定と認めるなら、その代金をチャラにすることくらい、できないはずがないじゃないか、それがすべての人の意思決定を尊重するインクルーシヴな社会のシステムってもんじゃないかと、言い立てたい気持ちが高ぶるのも事実なのである。

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