障害学会第10回大会(2013年度)報告要旨
桐原 尚之 (きりはら なおゆき) 立命館大学大学院先端総合学術研究科
■報告題目
赤堀さんを殺して我々に明日はない――現在における我々の明日とは何か
■報告キーワード
精神障害,赤堀闘争,現代史
■報告要旨
赤堀さんが仮にも無罪釈放された際、島田事件対策協議会の支援者らがかけた言葉は、次のようなものであった。
島田・R・S
赤堀さん、よかったですね。本当によかったですね。何か信じられないような気持になり、本当に本当なんだ……と時々つぶやいて確かめてみたり。当たり前のことが認められただけなのに何故こんなにびっくりしたり、信じられなかったり、感激したりしなくてはいけないのでしょうネ。(森 1989: 142)
藤枝・A・S
赤堀さん、再審開始が決まり、本当によかったと思います。いつかは必ず来る日、と確信しながらも開始決定の報道に胸が熱くなりました。事件を知り、赤堀さんを考え、この新聞発行のお手伝いをしながらいつも考えていたことは、自分だってこの不幸な事件や赤堀さんへの加害者になり得るということでした。(森 1989: 143)
北九州・沢田猛
ようやく明かりが見えてきました。それにしても長かった。赤堀さんはいま獄窓で「晴れの日」をかみしめていることでしょう。ささやかな支援をしてきた者にとって赤堀さんの笑顔が早く見たいものです。(森 1989: 144)
静けさとざわめきが流れる中、しばらくして“無罪”の旗を振りかざして地裁の庭を弁護人の一人駆け抜けた。胸が熱くなり、涙をにじませながら、わたしたちは、「おめでとう」「よかったね」を連発しあい、握手のさざなみを心地よく広げた。「おめでとう。赤堀さん」「おめでとう。みんな」(白砂 1989: 165-6)
どれも、支援者の本音であり、赤堀への祝福を思ってのことだったに違いない。しかし、赤堀は、釈放されてから間もない時に、仙台刑務所と静岡刑務所で収容中に死刑を執行された人の名前をあげて獄中の実情を告げた。人を殺される現場に居続けさせられたことは、たとえ、その場を離れることができたとしても、決して、おめでたいことではない。
そういう意味で、1988年6月19日、赤堀さんが「僕ヲサガサナイデクダサイ」と書置きを残し、大野萌子のところまで行ったことは、ある意味で自然なことであった。
そのことは、一般的に赤堀さんが島田に居場所はないと判断したためと捉えられている。たとえば、殺害された当時6歳の佐野久子ちゃんの父親の佐野輝男さん(72歳)が次のように述べていることとも関係する。
「ほんとにね、私は許せんですよ。当時はね、赤堀がもし刑務所から出てきたら、私が一番先に飛んでいって殺してやろうと思って……そのくらい思ってました。今はもうしようがないけど、あれが犯人であることは間違いがない。島田市内の九九lの人が、そう思ってるよ」(長尾 1989: 146)
だが、赤堀さんの居場所のなさは、単に島田の人たちの犯罪者を見る視線だけではなかった。支援者が周囲にいて居場所のなさを感じるということは、島田の支援者が赤堀さんの居場所ではなかったことを意味する。
結局、赤堀さんは、赤堀中央闘争委員会委員長の大野萌子のところに行くわけだが、大野さんは、わけあって、2013年から赤堀さんの介護の見通しが立たなくなっている。すなわち、赤堀さんの居場所は、潰えてしまうかもしれない、という現状の課題がある。
赤堀さんを殺して我々に明日はない、と叫んだ同胞は、今、直面している赤堀さんの生存をどう考えるだろうか。我々の明日は、どうなってしまうのかは、随所の問題にかかわってくるため、私という個人の問題を私たちという全体の問題に同定化していかないと、いずれは、本当に我々に降りかかってくるだろう。
引用文献
白砂巌,1989,「島田事件への支援ありがとうございました」森源『島田事件レポート』島田事件対策協議会.
長尾三郎,1989,「赤堀政夫『死刑台からの生還』冤罪は何を遺したか」『現代』23(4),講談社
森源,1989,『島田事件レポート――死刑囚赤堀君の救援運動の記録』島田事件対策協議会.
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