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福岡発達障害案内所
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「夜警支援の原則」                       執筆者:  こうもり
※「夜警支援の原則」はロバート・ノージックの「夜警国家論」とは無関係です。

(はじめに) 

 「夜警支援の原則」というテーマを扱うきっかけになったのは、2〜3年前に出会ったある発達障害青年との出会いだった。わたしはその青年とはけっきょく3度しか出会うことはなかった。しかし、その生い立ちについて聞いたことは今も鮮烈な印象として残っている。
 学齢期を通じて普通学級に在籍していた彼は、学外でLD児として支援を受けていた。ソーシャル・スキル・トレーニング(以下SSTと略す)やデイケアに参加し、本人は少なくともそこが自分の居場所であり、励みになったと語っていた。しかし、学校での陰湿ないじめは小学校から高校を通じて止むことがなかったと言う。とても大人しそうなその青年を見ながら、わたしは説明のしがたい違和感に襲われた。 おそらく、その青年の家族は本人に対して愛情が深く、学外で彼に関わっていた支援関係
者たちもその青年に対して時代的な制約の中でできる限りのことをしようとしたのだろう。彼らの善意を疑うつもりは全くない。それでも違和感を消し去ることはできない。なぜだろうか?

 「夜警支援の原則」とはその時に受けた違和感を徹底的に考え、「自閉当事者に根源的に必要な支援とは何か」「どのような支援が好ましくないのか」という問いに対してわたしが出した1つの暫定的な回答である。あくまで暫定的な回答であるため、
今後考えが修正されていく可能性はあるし、わたし以外の他者が理論上の問題点を発見することはそれほど難しくない。しかし、その問題提起の大きさと問いの根源性において、わたしはしばらく「夜警支援の原則」を超える問題提起を発達障害支援の世界に発信することはできないだろう。少なくとも今の時点でわたしは支援について今
回語ったこと以上のことを語ることはできない。

 特定の支援の理論に則らずに問題を考察しているため、支援に携わる人々から見れば非常識な提言も多数行われていることが予測される。しかし、一当事者であるわたしとそれらの支援の理論に考え方の違いがあるのはなぜかということを考えていくことも大変有意義であると思うので、敢えてそのままにしておいた。

 また、わたしの提言は多くの自閉当事者の考えを代弁するものではないことをあらかじめお断りしておこう。むしろ、本稿では自閉当事者が支援関係者に対して直接要求することの少ない事柄や、当事者自身が見落としてがちな事柄に対して多くのことを語っている。

 わたしの考えに賛成されることがなくても、この発表が発達障害の支援関係者にとって何らかの形で考える材料となることを願ってやまない。

(1)「夜警支援の原則」が問題にする支援について

 「夜警支援の原則とは何か」について語る前に、「夜警支援の原則」という理論がどのような支援を問題にし、どのような問題提起を行おうとしているのかを明確にしておく必要がある。

@何がおかしいのか

 わたしは冒頭に挙げた発達障害青年の支援のどこに問題を感じたのだろうか?言葉の限り説明してみたいと思う。ちょうどこの問題を考えていた時、わたしは不意にある寓話を思いついた。この場で紹介することは有益だと思われるので簡単に紹介しておこう。

医療がまだ進んでいなかった頃のこと、村に毒蛇にかまれて瀕死の子供たちが何人かいた。
医者たちが呼び出され、どのように治療をすればいいのか方針を協議した。
ある医者は蛇にかまれた傷口から出血しているので、まず止血をすべきだと主張した。
また、ある医者は蛇にかまれた痛みをまず消去すべきだと主張した。
別のある医者は子供たちが蛇にかまれた心理的なショックをなくすべきだと主張した。
最後の1人は皮膚についた傷が醜いので、傷を見えなくすることが先決だと主張した。
話はまとまらず、医者たちはそれぞれの方針で治療をすることにした。
蛇に噛まれた子供たちがどうなったのかは言うまでもない……。

 この話がおかしいことはおそらくほとんどの人々がすぐに気がつくだろう。しかし、おかしいと感じただけではわたしたちの生きた教訓にはならない。一体どこがおかしいのか?この点を突き詰めて考えていく必要がある。

 毒蛇に噛まれた子供を助けるためにまず周囲の人々がしなければならないことは、子供たちの体内から毒を除去して命を守ることである。子供から痛みや苦しみや醜さを取り除くことはさしあたり後回しであってもよい。当然のことながら蛇を噛まれないようにするためにはどうすればいいのかを教えることも毒を除去することに成功してからであってよい。しかし、この寓話では人命を守るという最優先課題が放置され、後回しにしてもよい事柄に全力が注がれてしまっている。このような事態を仮に「優先順位の転倒」と呼んでおこう。「優先順位の転倒」した支援では、様々な最先端のプログラムが開発されるが、支援をする側も受ける側も一番必要なことは何であるのかを見失っているという特徴がある。 
 
 しかし、「優先順位の転倒」は決して寓話の中に出てくる絵空事ではない。現在の現実を生きる支援関係者や当事者もまた度々優先順位を転倒させてしまっているからである。このことについて以下で述べる。

A優先順位の転倒

 冒頭で例に挙げた発達障害青年は確かにサポートを受けることができた。その意味で発達障害者としての支援を受けることができなかったわたしよりは恵まれていたと言えるかもしれない。しかし、わたしは悲しいことにその青年がうらやましいとは思
わなかった。理由はやはり支援の優先順位が転倒していたということが大きい。 

 この発達障害青年は虐待,いじめを受けていたのであり、本来ならば虐待,いじめを防止することの優先順位が最も高かった。本人を社会と折り合いをつけられるように訓練することは安全を確保した上で行うべき事柄であると考えられる。SSTやデイケアの価値を否定するつもりは全くないが、それがどんなに優れたプログラムであっても、現在進行形でいじめや虐待を受けている子供の安全確保よりも大切であると主張することはできないだろう。 

 もちろん、その青年は発達障害による対人交流の困難が大きく、それがいじめを受ける引き金になったという事実はあったかもしれない。しかし、障害による困難が重い当事者ならばいじめや虐待を受けることが肯定されるというものではない。優先順位が転倒した支援では、当事者の安全を守ることがおざなりにされ、いじめ,虐待を受けた自閉当事者の心の傷を癒すことや社会に順応する訓練を受けることに全力が注がれることになる。あるいは当事者自身がそのような支援を求めてしまう。 

 わたしの経験についても話しておこう。わたしは小学生の頃未診断のまま脳性まひを扱っている療育機関に1ヶ月に1度通所し母親が相談を受けていたが、学校で個別に配慮や教育を受けることはほとんどなかった。いじめが発生した時も、学校関係者が発達障害のことをあまり理解せず、積極的に問題に向き合おうとしない中で母親が学校に求めたことは「いじめや喧嘩があったら理由の如何を問わず、止めろ」ということだった。もし、今のわたしを見て特別な教育や支援プログラムを受けたAS当事者と遜色のない状態に育っているとすれば、それは訓練よりも安全確保の方がいかに大切だったのかを雄弁に物語っている。対人トラブルに遭遇した時の安全確保だけはしっかりなされた教育を受けることができたことは幸運だったと言ってよい。

 話を「優先順位」の転倒の件に戻そう。「優先順位の転倒」は就労支援の分野でもよく起こりうる。就労支援と言うと日本のAS当事者が真っ先に思い浮かべるのは職業訓練である。わたしと面識のあるAS当事者の中にも福祉作業所に通所している者は何人かいる。しかし本人に可能な雇用が少ないために、いずれも雇用にはつながっていない。「優先順位が転倒した支援」では当事者本人を職業訓練することに全力が注がれて、雇用が十分に確保されないといった事態がよく起こる。あるいは福祉作業所で仕事の体験だけをして収入にはつながらないと言った状況に陥ることも多い。残念ながら、福祉作業所で通所している当事者たちははわたしよりも長時間厳しい労働条件で働いているにも関わらず、収入はわたしよりもはるかに低い。「当事者が生活費を確保すること」にサポートの優先順位を置くならば、これもまた優先順位の転倒と言える。仕事はあくまで当事者本人が収入を得るための手段なのであって、仕事を経験するために仕事をするのではないのである。

 自閉当事者が社会と折り合いをつけるための訓練はまず「当事者が安全面,経済面から見て十分な生活をできるようになってから行うべきである」という前提を崩してはならないだろう。少なくとも、自閉当事者が「人間らしく生きられている」という
前提を取り外したまま行われている支援をわたしは支援と認めない。

B追い詰められた要求

 「優先順位の転倒」批判については以下のような反論が予想される。
 「あなたのその意見は他の当事者たちの素朴な感情を代弁していない。あなた以外の大人の当事者からは友達が欲しいからSSTを受けたいとかもっと職業訓練を充実させてほしいという声をよく聞く」と。

 じっさい、そういう要求を持つ当事者は数多く存在するだろう。自閉当事者の自助グループにも関わっているので、SSTや職業訓練に対する要望が当事者の間で強いことはよく分かっている。むしろ、要望が強いからこそ、この2つの支援を題材として
提供したと考えていただきたい。そして、冒頭で述べたようにこの提言は多くの自閉当事者があまり語らないことや見落としている点について多くのことを語っているということをもう1度ご確認いただきたい。

 「当事者からの待望論」という異論については以下のような回答を行いたい。自閉当事者が語るサポートの要望はどのような状況下で語られているのかを考える必要があるのではないだろうか、と? 

 黒人差別を例にとって考えてみる。黒人差別や虐待が温存されている国で黒人の子供が支援者に対して「肌を白くして欲しい」とか「黒人学級を作って欲しい」とか「白人の子供と仲良くするスキルを身につけたい」と希望したとしよう。しかし、こ
れは前提がおかしい。もし黒人差別が現に存在するとすれば、わたしたちがまずなさなければならないことは黒人差別そのものを解消することである。黒人であることによって不利益を蒙る状態を放置したまま、その黒人の子供の願いを叶えて黒人の肌を白くするような医療を開発することや、黒人学級を作ろうとすることは欺瞞でしかありえない。ここで例に挙げた黒人の子供たちが黒人の不利益を蒙るような状況下で発した要求を「追い詰められた要求」と呼んでおこう。「追い詰められた要求」は黒人差別のない社会ならば、発する必要もない要求である。 もちろん、人種問題と障害者問題は、障害者問題では当事者が現実的なハンディーを抱えているという意味では人種問題とは異なる側面を持つことは事実である。しかし、障害者であることが原因で多くの不利益を蒙るような社会では、「追い詰められた要求」は当事者の口から度々発せられることになるという点では共通する側面も持つ。

 かつて、わたしのメール・アドレスにある会社員の方から以下のようなメールが届けられたことがある。「私は職場でいじめを受けている。自閉症かもしれないので、医療機関で診断を受けて治療したいと思っている。どこかいい医療機関はないだろうか?」この人が本当に自閉症だったかどうかは直接お会いする機会がなかったので、分からない。しかしこの場合、診断を受けたいというのも障害を治療したいというのも「追い詰められた要求」であり、健全な要求とは見なしがたい。そして、職場でいじめがなかったらやはり発する必要のない要求である。

 SSTを希望する自閉当事者が多い時、単にその当事者の希望に添うだけでなく、障害者であるためにコミュニティーに参加できないでいる現状が放置されていないかを想像してみる必要がある。あるいは職業訓練を受けたいという自閉当事者が多い時もやはり障害を抱えているという理由でことによって職場から疎外されてしまう現状が放置されていないかをよく想像してみる必要があるだろう。

 もちろん自閉当事者の「追い詰められた要求」が少なくともその当事者にとって切実な要求であることは疑いない。しかし、そう言わざるを得ない状況に追い込まれた自閉当事者の発言を「これが当事者の望んでいることだ」とされてしまうことには異議がある。わたしから見て自閉当事者の健全な要求と言えるのは、どんな状態であれ、最低限必要な生活費を確保できていて虐待もいじめも受けていない状況下で発せられた要求だけである。そして、これから語る「夜警支援の原則」が目標とするところは、当事者の「追い詰められた要求」を叶えることではなく、当事者が「追い詰められた要求」を発しなくても済むようになることなのである。

 ここで疑問を持つ人もいるかもしれない。わたしがこれまで述べてきた問題提起から考えると、わたしがこの後当事者の「生活費の確保」「虐待,いじめの防止」と言った問題に言及するのは目に見えている。しかし、この2つこそ自閉当事者の「追い詰められて発した要求」の最たるものではないか、と。つまり、「夜警支援の原則」もまた「追い詰められた要求」の1つの形態なのではないか、という疑問である。

 このご指摘は間違いなく正しい。優先順位を転倒させていないという自負こそあるが、これからその概略を語る「夜警支援の原則」は間違いなく「追い詰められた要求」である。そして「夜警支援の原則」が掲げる諸目標はそれらの目標が達成された時、全く発する必要がなくなることが望ましい。ただし、「優先順位の転倒」を起こさず、不要な「追い詰められた要求」を拡大再生産しないという点では他の「追い詰められた要求」とは一線を画していると言えるだろう。

 第1章を要約しておこう。他の障害当事者と同様、自閉当事者にも生きるための生活費を確保されることと虐待やいじめを受けずに暮らしていけることは決定的に重要である。あらゆる支援の中で、この2つには最も高い優先順位がつけられる必要がある。これらをおろそかにして行われる支援は「優先順位の転倒」「追い詰められた要求」と言った弊害を生み出し、有害な結果を生み出す危険性がある。「夜警支援の原則」はこれを防ぐためになされる主張である。

(2)「夜警支援の原則」とは何か

@原則

 前置きが長くなったが、「夜警支援の原則」について概要を示す段階に到達した。まずは、どんな原則なのかを明示しておく必要がある。

・まず、困窮している自閉当事者の安全と生活費の確保を最優先課題とする

 困窮している自閉当事者が安全面,経済面から見て十分な生活を送ることができることを最重視する。もちろん、それ以外の支援を望む当事者は多数存在するだろう。しかし、それらの要求は自閉当事者(子供の場合は扶養者)が生活費を十分獲得することができれば問題なく支援サービスとして購入することができる。

・問題そのものの即物的解決が目指される。

 障害による困難のために生きるために必要のものが確保できない,安全が確保できないという事態があれば、まずはそれらを確保することに高い優先順位が置かれる。困難を軽減するための訓練はそれから行うべきという前提を絶対に覆さない。

・極めて消極的である

支援はあくまで自閉当事者(あるいは扶養者)が危機に陥り、自力解決ができなくなった時だけに行われる。夜警は危険な時だけ治安を守り、安全な時は活動をしない。「夜警支援」もまた自閉当事者が順調に働くことができていたり、いじめや虐待のない状態では必要とされない。・自己否定性を持つ 経済面,安全面から見て危機的な状況から抜け出すことができた時、その支援は必要ではなくなる。自転車の補助輪が最終的には取り外されることが目指されるように「夜警支援」もまた最終的に取り外されることが目指される。

・ただし、困窮している当事者には確実に

 保険や共済のような性格を持ち、社会的に困窮している自閉当事者に優先的に支援の手が回るような制度を作り出す必要がある。この場合の社会的な困窮とは医学的な意味での障害の重さに関係なく、安全面,経済面から見た困窮である。

 特に経済力がないために支援を受けられないといった事態は絶対に避けられなければならない。就労に成功していない多くの自閉当事者は自力で支援サービスを購入することは難しいということも念頭に入れておく必要がある。 以上のことを踏まえ
て、次に具体的にどんな支援が必要なのかについて述べていきたい。

A具体的にどんな支援が必要か?

・経済支援 

 支援においていきなり「同情するなら金をくれ」と要求することは無味乾燥で冷淡に思われるかもしれないし、物質主義的で嫌悪感をもよおされるかもしれない。しかし、わたしは就労に成功していない大人の自閉当事者に最も必要なサポートは経済サポートであると信じる。それも可能であれば家族の経済力に依存しない形での経済支援が受けられることが望ましい。

 経済支援について語る時によく出される意見として、「現在の日本は不景気とは言え、貧困と言える状態ではない。働けていない時は家族に養ってもらうというのも1つの選択肢なのではないか」というのがある。しかし、家族による経済支援には1つの弱点がある。家族と自閉当事者の利害は必ずしも一致しない場合があるからである。わたしが面識のある中途診断の自閉当事者の中には家族との折り合いがよくない当事者は決して少なくない。例えば、家族から暴力を受けることがあるので自宅を離れて生活したいという失業中の自閉当事者の要求に対して、家族の経済的支援を期待することは難しい。 そして、経済支援については2つの形態が考えられる。1つはアルバイトのような形であっても、自閉当事者が採用される可能性のある雇用をたくさん作りだし労働に対して賃金を手渡すことであり、もう1つは生活保護のような形で自閉当事者に生活費を支給することである。むろん、生活費に困窮している時は可能な方法で収入を確保していくしかないが、「夜警支援の原則」では支援の自己否定性を重視するので、前者の雇用を増やすということに力が入れられてもよい。

・虐待,いじめを防止するためのサポート 

 前述した経済支援が大人向けであるのに対し、この支援は特にまだ子供である自閉当事者に特に必要なサポートと言える。ただし、大人の場合もいじめ虐待を受けている場合は必要であることは言うまでもない。自閉当事者が何らかの形でいじめ,虐待を受けている場合にただちに法的,物理的に保護できるようにすることは重要である。

 教育的に見ても自閉当事者本人が自分には危害が加えられそうになった時に当然守られる権利があり、どんな障害であれ危害を加えられるのは不当という権利意識を持つことができたとすれば、この支援は成功していると言えるだろう。

  具体的なサポートとしては虐待,いじめを受けた時の緊急避難場所(シェルター)があること、虐待やいじめが発見されたらすぐに法律機関を通じて法的手続きが取れること、本人が自らが虐待,いじめを受けそうになった時に身を守るための法律や制度に習熟できるような教育が行われることなどが考えられる。

B危機予防という道は取らない

 ここまでで「夜警支援の原則」についてはほぼ語り終えたが、1つの誤解が発生したのではないかと危惧する。それは当事者の生存権を守ることを力説したがために、自閉当事者を恒常的に保護することを求めるような主張であるように受け取られたのではないかという誤解である。しかし、「夜警支援の原則」はむしろ保護を恒常的な保護を拒絶する性格を持つ。「危機予防」という言葉を用いて、この点について補足説明しておこう。

 「危機予防」とは自閉当時者が危機に遭遇しないように、一切の危険から遠ざけることである。できる限り安全な環境で育てる,できる限り安全確実な進路選択をさせると言ったことがこれに含まれる。しかし、わたしが「夜警支援の原則」で求めていることは、危機が訪れる可能性そのものを無くすことではなく、その逆である。

 時々、支援関係者から「予後がいいようだが、どんな教育を受けてきたのか?」と質問を受けることがあるが、答えに窮することがある。もちろん、社会資源があまりないなりにわたしと同じ世代の当事者の中では比較的恵まれた教育を受けたことは確かだが、それだけでは説明できないからである。敢えて言うなれば、あまりにも予期できぬ未知との遭遇の多い人生を送ってきたことが大きな財産となったのだと思う。いくら安全で予定調和的であっても、人生に対して何も心配することがなく悩みも葛藤も苦しみもない人生を送っていたら、わたしは自分を変えていくことができなかっただろう。自閉当事者に限らず、人間は与えようとしたものよりも予測できない出来事から学び、未知の海を泳いでみなければ分からないことはあまりにも多い。そういう意味でどんなに辛くても、当事者が危機に遭遇し直面する可能性自体を摘んでしまってはならないのだと思う。ここで、以下のような反論が出されるかもしれない。「これでは対処療法にすぎず、本来必要なのは計画的な予防教育なのではないか?」と。自閉児教育では子供が小さいうちからできるだけ教育に力を入れた方がいいという意味ならばこれは正しいし、わたしの意見と特に矛盾しない。しかし、そのことと危機に遭遇するという経験を当事者から奪い取ってしまうことは別問題である。保護することによって当事者本人の経験が狭められることが問題なのである。 逆の矛盾を感じる人もいるかもしれない。「夜警支援の原則もまた当事者から予期できぬ人生の芽を摘みとってしまうのではないか?」と。そのような面が全くないとは言えないだろう。しかし、現在の支援は失敗や挫折に対する補償がないがために、「夜警支援の原則」が確立されている場合よりもはるかに安全確実な人生を当事者が歩まなければならない場合も多い。就労支援を受けやすくするために学歴があまり高くならないような進路選択を自閉当事者にさせるというのもその1つであろう。いい学校に進学できないということが問題なのではなく、当事者が進路を選ぶ余地がないということが問題なのである。現状が放置されれば、「危機予防化」はさらに進行し、自閉当事者の経験はさらに狭められることになるだろう。そして少なくとも、挫折した時でも最低限の安全,収入が確保できていた方が当事者は未知との遭遇を経験することができるようになるのではないだろうか。

 「夜警支援の原則」は当事者本人が危機に陥り、自力解決困難になった時のみ必要な支援について語っているということを重ねて強調しておきたい。そして、「夜警支援の原則」は自閉当事者が予定調和的な人生を生きることよりも、混沌に満ちた人生を送ることに役立って欲しいと願う。

(3)まとめ

夜警支援についてたくさんのことを語ってきた。しかし、辿りついた結論は極めて単純なものになったのではないだろうか?「あらゆる支援は当事者が安全面,経済面から見て十分な生活を送ることができるようになることであり、それ以外ではないこと。そして、それはその自閉当事者がどのような困難を抱えていても確実に手に入れなければならないこと。」基本的人権で言えば生存権に該当するような問題について、「夜警支援の原則」は多くのことを語っている。

 しかし、このテーマは発達障害支援の中では意外に扱われてこなかったたのではないだろうか。時々、発達障害の学会,シンポジウムなどに行くと、「発達障害児をどのように教育するか」とか「問題行動にどう対応するか」「社会にどう順応させるか」という研究は多いが、「発達障害当事者が人間らしく生きるためには何が必要か」というテーマに出会うことはほとんどない。療育については多弁に語られるが、「最低限の生活」を確保することについては恐ろしいほど言及が少ない。特に日本の知的障害を伴わない発達障害支援の場合、かつての反差別運動のような運動にもまれず穏便に展開された反面、「人権」という問題との葛藤もあまり経験することがなかった。このため、「障害者の権利」という視点が極めて弱くなっているように思える。

 このことが影響したのだろうか、自閉当事者の側にも「障害があろうがなかろうが、重かろうが軽かろうが自分には生きていく権利があるし、他人に人権を侵害される言われはない」という感覚(つまり人権意識)が恐ろしいほど希薄であるように思える。

 以前、当事者の提言を聞くシンポジウムに出席した時、子供の頃にいじめを受けて大人になった当事者が「普通になって、健常者たちと友達になりたい」と発言しているのを聞いたことがあった。虐待され続けてきた奴隷の子供が発言したのかと思うぐらい、悲しい気持ちになる発言だった。別に健常者と友達になりたいと思うこと自体が問題なのではない。「努力して普通にならなければ友達にはなれない」という前提を持っていることと「辛い仕打ちを受けたことに対する怒りがない」ということが問題なのである。
  医学的に見れば、自閉当事者の障害の重さは多様であり、わたしが達成可能な目標であっても、他の自閉当事者には限界があり不可能だという事柄はいくらでもありうる。しかし、どんな自閉当事者であれ、「自分には無条件に守られる価値はある」という感覚は持っていて欲しいと思う。そう言った意味で「夜警支援の原則」は単なる支援関係者への提言ではなく、当事者の意識変革ということも視野に入れた議論になる可能性があるだろう。そして、この議論の目標が達成され、議論自体が無意味化することを願う。

(追記)
 名前は明かせないが、わたしが参加しているML,サイト,オフ会などで数多くの意見や情報を寄せていただいた発達障害当事者ならびにその他の障害を抱える当事者たちにこの場を借りて、謝意を述べたい。あらゆる障害にとって有意義な提言を行うことができるようになることによって、いつか恩に報いることができればと思う。それぞれ別の世界を生きていても、未知の大海を泳ぎつづけている当事者たちの幸運を祈りつつ。