一つの事件から知的障害のある人の人権を考察する 〜Aさんが自由に生きるために〜 2003年12月、東京都練馬区にある知的障害者入所授産施設で、たいへん衝撃的な事件が起こりました。地域支援者2名が「建造物侵入」の疑いで逮捕されました。この事件から、知的障害のある人の人権を考察してみたいと思います。 経過 5年ほど前から、親元で地域支援を受けていた男性Aさん(重度知的障害者・事件当時38歳)は、2003年5月に本人の意思に反して、ご両親の希望で上記の施設に入所を余儀なくされました。しかし、入所後も週末などを利用して、関係のあった地域支援者や当事者仲間とボーリングやカラオケなどに行く余暇を楽しんでいました。地域支援者は、その余暇活動の帰りの車で施設に戻りたくないと一生懸命主張するAさんをみながら、なんとかその意思を尊重できるように考えていくようになりました。そのために、彼の意思を確認するために、カードや写真を利用して、どれが好きか、何が嫌いかなどを丁寧に何度も何度も繰り返し聞き取りを行いました。 一方、同園はAさんは4〜5才程度の判断能力しかないと捉え、且つ、Aさんは家族から預かっているという立場だという観点から、11月に「謹告」を張り出しました。謹告とは、『すでにご承知のことと存じますが、今年度より、障害者関係の福祉サービスは提供の仕組みが「利用者契約・支援費制度」という新しい制度としてスタートしたことに伴い、当施設においても利用者希望者との契約に基づいた運営を行っています。したがいしまして、当然のことながら施設利用者及びその保護者の信頼にこたえるための努力義務と責任を負う次第です。つきましては、当施設への無断立ち入り及び当施設利用者とその保護者からの事前の承諾・連絡のない突然の訪問や面会、外出等のお誘いは固くお断りします』というものです。 この頃には地域支援者と同園の関係はAさんを挟んで険悪になりつつありました。いや、むしろAさんを抜きにAさんを取り巻く地域支援者と同園、そして保護者の間で空中戦が始まりました。 そして、2003年12月4日、地域支援者と知的障害のある当事者が、保護者の事前の承諾なしで同園に白いワンボックス1台に4人でAさんに会いに行きました。ご両親や施設、福祉事務所など、Aさんに関わる人たちにAさんの意志を理解してもらうために、ビデオで撮影しながらAさんの意志を車の中で聞き取りを行っていました。 その間、警察が来て、間もなく「建造物侵入」の疑いで地域支援者2名が逮捕されました。 この事件は多くの方に地域支援者の逮捕事件として認知されています。しかし、それは違います。逮捕された人にインタビューできたので紹介します。 インタビュー 『2003年12月4日、地域支援者である私は練馬の旭出生産福祉園入所棟に友達であるAさんに会いに行き、「不法侵入」の罪で逮捕されました。私とAさんは6年来の付き合いで、出会った頃は自宅から旭出学園に通所しているAさんを夕方迎えに行き、地域の当事者団体の自立体験室を借りてご飯を作ったりお風呂に入ったり、宿泊もしながら本人の望む地域生活にむけて一緒に考えていました。両親も不安を持ちながらも反対はしていませんでした。やれるものならやってみなさい。そんな言葉が返ってうれしくも思える関係でした。 しかし2003年3月、「入寮が決定しました」とお母さんから。どうやら入寮はAさんが学園に通い始めて30年かけての順番待ちだったようです。Aさんは明らかに嫌がっていました。私やほかの支援者、知人に電話をかけてきて「だめだめ」「施設で暮らしたくない」「今までと同じ地域で暮らしたいんだ」と訴えます。そんな声を親や施設は分かっていながらも、「もう決まったことだから」「施設なら60点は取れる」「教育方針の一貫性を」とAさんの意思を聞こうとしていませんでした。 わたしたちは絵文字(マカトン法)を使ってAさんの意思を記録に収めて市や都、親や施設にAさんが訴えるのを手伝おうと考えました。そして12月4日、一時外出さえも親や施設の意向でできなくなったAさんの声を聞き取りに行った施設のいつもの駐車場で、久々にAさんと再会できました。Aさんは車に乗ってきて(たぶん迎えにきたと思ったのでしょう)降りたくない、といいます。施設職員は外から「Aさんを出してください」と言います。Aさんは外にいる職員さんの顔つきを見てさらに怖がった顔になりました。ここで降りても施設に逆戻りだよ、となんとか伝えようとしました。そして警察、両親が来ました。両親の顔を見たAさんは「自宅に帰れるかも」「警察は怖いからお父さんに助けてもらおう」と思い、自ら車を降りました。そして私たちも車を降りると警察の車に乗せられ・・・。 警察の取り調べもあきれたものでした。Aさん本人のことがまったく分かってない刑事さんが「飴玉で呼んだんだろう」「三歳の知能指数だから」と本人の意思も見えていないのに勝手に調書を作り上げようとしました。その一方的な調書にサインをすることはできなかったので紙をもらって自分で調書を書きました。全部説明するには時間がかかるな・・・と思いましたが、時間をかけて書きました。しかし、結果二週間、なぜ自分がそこにいるのか分からずに、触法行為はどの瞬間だったか分からずに留置所で特に取り調べもなく悶々とした日を過ごしました。 外では事務所の仲間や弁護士さんが施設や警察に訴えてくれました。留置所を出る2日前、東京駅の見える高層ビルに手錠をかけられて検事さんに面会しに行きました。検事さんは優しい顔をしていました。積み重ねてきた記録に目を通してくれていたようです。詳細は覚えていませんが最後に「ご両親を泣かさないで」「Aさんをこれからも手伝ってあげてください」「でも二度とここには来ないように」と言ってくれました。 それから3年が過ぎました。勇気を出して両親や施設に「警察を呼んでしまう騒ぎを起こしたこと」については謝罪しました。しかし「Aさんの意思」は聞いてほしい、と訴え続けています。しかし「あんな騒ぎを起こしておいて」としかめ面をされ続けています。外向けの学園行事でAさんに会う機会があります。入所当時よりもすっかりスリムになっていました。大好きなコーラも控えているのでしょう。でも会うたびに「久しぶり!遊びに行こうよ!」と笑顔で答えてくれます。そんな顔を見るたびに申し訳なく思います。「遊びに行こうな」と何度も約束しながらも、あれから施設にも親にも煙たがられ続けてその約束は果たせていません。 6年前、同時に家族支援も、ということでAさんのお宅に出入りし始めました。しかし親が障害を持つ息子を抱えきれなくなって、「入所」という道を本人の意思を聞かずに決定したことは、私はじめこちらの支援者が親の信頼を得ることができなかったのかな、と責任を感じます。しかし親が「障害を持つ息子が本当に幸せになること」への責任を放棄した結果のようにも見えます。私はこれからAさんの将来のどんな手伝いができるだろうか。また同じように本人の意思を無視し、施設入所の道を選んでしまう親や施設職員がいないように願います。』 -------------------------------------------------- このように、この事件は単なる地域支援者の逮捕事件と解釈して済ませてはなりません。 私たちはこの事件を通して今一度考えなければならないのは「Aさんの自由」についてであります。 Aさんの自己選択・自己決定は、入所施設という「生活の場」において、面会や外出、電話などというレベルの自由も認められないものなのか。そんな必然的とも言える、本人のそんな小さなニーズさえ「家族の許可」が無ければならないものなのか。 知的ハンディがあるという理由だけで、Aさんの一切の主体性を奪うことは誰にもできないことです。親御さんや御兄弟などと、当事者の意見が相反することなどは、多々あります。日常生活の小さなことから、人生を左右する大きなことまで、障害のある当事者とご家族が別の人格である限り、意見対立が起きることはある意味で避けようがないと思います。その中で重要なのは、一方がいつも支配する立場にあったり、一方が何かを決定する立場であったりしてはならないことだとおもいます。当然、施設という集団の場であっても同様で、支配やパターナリズムではなく、個々のニーズや必要な支援に応じて、当事者の尊厳を、自己選択・自己決定の自由を最大限補償していかなければならないと思います。 知的障害のある当事者は、その障害の特質から、かごの中の鳥になってしまっていることが多すぎます。かごの中にいる限り、家族や施設で愛され続けられる。食事にも、お金にも困りません。でも、そこには自由がないのです。Aさんの好きなジャイアンツの野球を見に行くことはできません。大好きで得意のボーリングをしに行くこともできません。コーラでのどをうるうす事さえできないのです。 知的障害の人にとって、どんな制度になろうとも、本人の意思を尊重されるような機能、それを支援する人がいなければなんの意味も持ちません。知的障害のある人の人権を早急に確立することが急務であると考えられます。 |