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障害学研究会関東部会 2006年11月11日

質疑応答

A:国庫負担は義務的経費になっているが、それは本当に「義務」として認識されているのだろうか。ホームヘルプなど在宅サービスも義務的経費として国が負担することになったが、同時に上限設定の道具にもなっているのではないか。上限ではなく、二分の一は必ず国は負担しなければいけないということを言わなければならない。そして支援費制度の時代に戻す必要がある。潜在化しているサービスニーズを、まず掘り起こすところから始めなければならないだろう。

岡部:障害者自立支援法であろうが、介護保険であろうが、割当優位・中央集権で、システム(制度)が利用者をコントロールすることを志向する福祉のシステムには抗していかねばならない。まず、運動においては、「私たち抜きで私たちのことを決めるな」ということを徹底して訴えていく必要がある。また、義務的経費の話はその通りで、義務なのだから、国は必ず二分の一を負担せよ、というのは正論である。必要に応じた分配をおこなうために、国は応分の責任を果たせ、ということ。「定率負担」は、国がしてこそ「応能負担」であり、利用者に求めるものではない。もうひとつ具体的に求めていかなくてはならないのは、障害程度区分と審査会をなくすこと。「改良」を求めるのではない。まずは、シンプルに、もとに、支援費のときに戻せ、ということ。最終的には、支給決定を利用者の権利を根拠とするものにしなくてはならないが、そのためにも、まず交渉決定モデルに戻すこと。しかし、いうまでもなく、障害程度区分と審査会といった介護保険とよく似たしくみを障害者自立支援法に組み込んだのは給付をコントロールするためであり、それと国庫負担基準を連動させることで国の負担の上限を決めることが、政策的動機の根本。つまり、このふたつのことを崩すことにはものすごく抵抗があるだろう。なにか「対案」をだすことの是非も含めて、いろいろ考えなくてはならない問題がある。

B:3点ある。1点目。障害者自立支援法においては、就労支援の強化も言われている。ケアに関することと、就労に関することでは別のロジックが必要ではないか。2点目。「なんでも無料で本当にいいのか」という意見もあるだろう。それに対して、「必要以上は障害者も要求しない」という意見もあるが、「あればあった方が良い」という声もあるだろう。3点目。政策のデザインに関する議論だけではなく、政策をどう実現していくかということについての議論も必要である。社会的合意をどのように形成していくかという議論が必要である。

岡部:まず、1点目について。就労についてもケアについても、「お金」が関係している。このことについて、整理しておく必要がある。福島智さんを引用し、「自分の財布と相談し、好きなように飯を食う」といったが、働くことの意義や権利とは別個に、つましい経済の自立と、穏やかな(他者の自律を毀損しない)ケアの自律は確保されなくてはならない、ということ。障害者にとってのケアと就労はここでつながっている。そして、働こうが働くまいが、障害者にとっては介護保障が必要だし、加えて、障害があろうがなかろうが/働こうが働くまいが、所得保障は必要なもの。
2点目について。介護保険における家事援助などを想定してよくそういわれる。そのような可能性を、全否定はしない。ただ、いろいろな人が言っているように、それは(たとえば「物欲」のような)際限のないものではないし、無駄になるものでもない。加えて、なんのために「やむをえないもの」としてのソーシャルワーク/ケースワークがあるのか。その人が求める生活を聴き、一緒にそのための「プラン」を考える。その過程のなかで、なんらかの「妥当性」のようなものを見出す、ということ。そのような交渉決定モデル/利用者と行政との話し合い、交渉といわれるものなかに、この解決の糸口あるのではないだろうか。そして、第三者判定モデルの最大の問題は、そのような可能性を閉ざしていること。
3点目については、自らの立場性を踏まえていわねばならない。私の主たる立場とそこでおこなうことは二つ。一つは障害をもつ子どもの親として、息子が利用する介護を求め、交渉によって得ていくこと、そして、パーソナルアシスタンス・フォーラムなどは、そのノウハウを皆と共有し、ひとりひとりの運動を広げていく営みでもある。もう一つの立場が(年を食った:笑)駆け出しの研究者としての立場。研究者として言えることを言わなければならないと感じている。しかも、それは最初の立場性、当事者性からのリアリティを損なうことなく、あとの立場性、研究の枠組み/社会福祉学で通用する言葉で語られる必要がある。拙著の「障害者自立支援法とケアの自律」が、オーソドックスな社会政策学や社会福祉学の理論や言説をかなり援用し小難しく書いているのは、学位論文が下敷という事情もあるが、そういう意図もある、ということも了解してほしい。

C:2点の質問。兄が重度の知的障害と身体障害をもっている。また地方在住ということもあり、地域格差も気になっている。兄は現在障害年金1級を得ている。障害者自立支援法では、月28,000円の残余金となるように利用者負担が算定されることになっているようだが、実際のところはどうなのだろうか。2点目。この障害者自立支援法の大変さを、多くの親や家族も感じることにより、運動に参加する契機となるのではないか。

岡部:最初の質問は、いわゆる補足給付のことと理解する。制度上はそういうことになっているが、息子は施設にはいないので、申し訳ないが、私自身は、その実態を把握できる立場にない。そして2点目。この法制度が、親が運動に参加する契機になるかとういうことについてだが、施設への給付の切り下げや自己負担の増が、自分の子供のアドボケイトとなることにつながるかどうか、ということだろうか。その意味では、残念ながら、今施設に子供をいれている親については、かなり悲観的である。しかし、児童の親のなかには、まだ絶対数は少ないかもしれないが、一人一人が行政等に交渉し、必要なサービスを求めていく動きがある。このような新しい親の運動には注目する必要がある。

D:意見として。審査会の導入などは、介護保険への統合を見込んでのことだろう。介護保険制度の動向について、さらに注視する必要がある。介護保険ではすんなりと決まることも、障害ではそうはいかないこともあるだろう。もっと声をあげていくべきだと思う。
 言葉の意味について教えてほしい。「反射的利益」、「残余主義」について。

岡部:意見についてはそのとおり。加えて、今回の障害者自立支援法における障害程度区分や審査会のあり方は、障害との統合を前提とした介護保険の次世代の要介護認定のための試行事業の可能性がある、ということにも注意してほしい。つまり、介護保険でもいずれは必要になる「上乗せ・横だし」のかたちやしくみをここで実験している可能性があるということ。
 「反射的利益」というのは、日本の福祉サービスや給付をうける権利についての学説。利用者や受給者は、サービスや給付に対して裁判規範となりうる権利、いいかえれば、要求しうる権利をもつわけではなく、国や自治体が援護の責任を有する結果、「あたかも権利を有するかのような」状態である、とする。日本の福祉サービス法においては、欧米とは異なり、「対象者の権利」というものはほとんどこの「反射的利益」でしかない、という見解を裁判官や社会福祉法の研究者のマジョリティはとる。
 「残余主義」というのは、報告でも紹介した著名な国際比較福祉学者エスピン−アンデルセン(Esping-Andersen)の用語。彼は、欧米を中心とした福祉国家のしくみについて国際比較をおこない、それが、北欧を中心とする社民主義、中央を中心とする保守主義、北米を中心とする残余主義という三つのレジーム(regime≒体制)で了解可能とする学説を唱えている。著名な学者であり、邦訳も多いので、詳しくは、そちらを参照してほしい。

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