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第9回アドボ会
2003年3月5日(火) 午後7時〜10時
武蔵野障害者総合センター 会議室
参加者 14名
第9回アドボ会資料
利用者と援助者の関係を巡って −カテゴリー化とスタッフ・コード−
早稲田大学大学院文学研究科社会学専攻博士課程 麦倉 泰子
・問題意識
1999年から2001年まで知的障害者入所更生施設に指導員として勤務
知的な障害を持つ人たちの生活を援助することの楽しさ、やりがいを経験し、スタッフ達の熱意や「処遇のプロ」としての意識に触れ、感動する。
同時に常に念頭にあった疑問=「入所者の要求はなぜ職員によって退けられることが多いのか」
仕事に熱心でない職員ばかりでなく、ベテランで利用者のことをよく考えている職員にもあてはまる。
2つのパターン
事例1:自閉症の20代の男性(言語なし)
白米が嫌いで、口に入れてもすぐに吐き出してしまう。パンに代替をして提供すればよいのだが、「まだ若いから「偏食」が治る可能性がある。」との理由で常食であった。機能的にはまったく介助の必要性はなかったが、「白米を食べさせるために」常に食事の時間にマンツーマンで職員がつき、おかずなどとご飯を少しづつ混ぜながら彼に渡す。
・こうした「援助」に対する反対意見が出にくい空気。=この男性に白米を食べさせることができるかどうかが職員としての力量の証明となってしまっていたため(「卒業検定」)、「白米を食べさせる」方針そのものに疑念を呈するよりも、「食べさせることができること」を示す方に必死になる。
ポイント1:利用者の方ではなく、スタッフの方を向いている態度
事例2:50代女性(自閉的傾向、躁鬱傾向あり)
「パーマをかけたい」という希望を3ヶ月ほど毎日職員に伝え続ける。美容外出の予定を組もうとしたところ、ベテラン職員から「待った」が入る。
「パーマは彼女の新しい拘り。また現在更年期障害もあって疲れやすい状態だから、毎日毎日パーマのことを気にしている状態は彼女にとって良くない。外出予定を組むのではなく、彼女の興味をピン留めなどに移行させることで対応したほうがよいのではないか」と「アドバイス」した。
ポイント2:利用者の言葉をそのまま受け取るのではなく、専門的な見地から解釈し、利用者のために希望とは異なる援助をしようとする態度
施設を退職した後、この2つの問題を考えてみようと思い立つ。
手がかりとなる概念: 専門知識 カテゴリー化 スタッフ・コード
・専門知識
専門知識 =「対象とする現象の原因や最適な対処法などについての知識からなる一定の信念体系」と定義
フリードソン、武川正吾:専門化の進展とともに医療・福祉の現場において利用者が感じ取った「直感的必要性」が「主観的なもの」として退けられる傾向があった事を指摘
→「専門化」のプロセスを緻密に描き出すことが問題解明の手がかりとなるのでは?
ある領域の専門化のプロセスを考える方法
・独自の知識と実践の体系を共有する集団が免許制度の成立など国家からの保護によって専門家集団として形成されてゆくプロセスを通時的に追っていく(Friedson 1970a)
・全くの素人が特定の専門領域の仕事場面に入るとき、仕事を遂行するために何を覚え、どのような点に注意するように求められるのか、すなわち専門家としてのパースペクティブを獲得してゆく過程として専門化を描こうとするアプローチ
上記のような事例がきわだって感じられた理由
=自分自身が知的障害者福祉の現場を全く経験したことがない素人であったため
「外部の人間が内集団の成員の視点を獲得していく過程」A・シュッツ
後者の方法を採ることによって現場において自明のこととされている問題が浮かび上がる。=こうした手法をエスノグラフィー ethno(民族) - graphy(誌)と呼ぶ。
現在の福祉分野の研究:2つに分化している?
制度についてのもの(構造的、システム的視点)/ナラティブ、ライフヒストリーなど、個人の内的な意味構成に関するもの(行為主体からの視点)
・では、実際の制度内での相互作用場面において、どのような意味づけが行われ、行為が組織化されてゆくのか?たとえば「自己決定権」の確立をいうときも、実際にどのような制度のもと、どのような場面で、どのような行為が「自己決定」と見なされているのか、あるいはそうでないと見なされているのか。そうした現状についての詳細な質的調査の蓄積が必要ではないか=エスノグラフィーの手法が最適
・全制的施設 total institution批判の流れ
ゴフマンの古典的エスノグラフィーである『アサイラム』(Goffman 1961):その後の入所型施設についての研究枠組みを規定した。この著作が提示した考え方で最も影響力が大きかった概念=全制的施設 total institution
対象とする人々の性質にかかわらず入所型施設に存在する特徴であり、入所する人たちとそこで働くスタッフたちの間の関係性の多くの部分がこの特徴に起因する要因によって規定されている。
「全制的施設」の特徴(Goffman 1961: 6)
@生活のあらゆる局面が同一の場所で、同一の決定機関のもとで行われる
A入所者の日課が大きな集団の中で行われる
B日課のすべての局面がタイトにスケジュール化されている
Cさまざまな強制的な日課はすべて施設の公的な目標を満たすための合理的な計画にまとめられる。
インスティテューショナリズム=計見 雄(1979):こうした特性が及ぼす負の影響を指摘
King、冨安:このゴフマンの全制的施設概念を用いて作成された尺度を用いて実際に複数の知的障害児入所施設で観察を行い、スタッフのケアパターンを類型化。→日課が固定的であったり、集団行動をする頻度が高い施設(施設中心型)ほど、入所者に何かを「させる・やめさせる」行動が多く出現し、スタッフ間の交渉が多く、入所者の訴えに「応えない」行動が多い。こうしたスタッフの行動パターンは障害程度など入所者側の属性に左右されるものではない。
老年者向けの入所施設であるナーシング・ホームのエスノグラフィーのほとんどに引用され、、この著作が理論的枠組みのルーツ。全制的施設の特性に対する批判という共有される姿勢はそこから生じるものであることがわかる。
・入所施設での職員の行動がある程度こうした制度面からの影響を受けていることは疑いがないが、対面的な相互作用場面で職員が利用者の行動にどのように意味づけを行っているのか(何が「好み」で何が「拘り」と見なされるのか)についてより細かい考察が必要。
・カテゴリー化=H・サックスの概念。相互行為場面において我々が他人の行為の意味を解釈するときに必ず行っているパターン化の作業。
我々はある人の行動を理解する際、性別や年齢、国籍などといったようなさまざまな記述可能性の中からその場面にふさわしいカテゴリーを選択する。それぞれのカテゴリーには、「赤ん坊」=泣く、「お母さん」=世話をする、といったように、それぞれのカテゴリーの人間がするものと考えられる「カテゴリーに結びついた行動」があり、その場の状況に応じて、その中から適切な結びつきを選択することによって、ある人の行動の意味を定義し、理解する。
知的障害者施設においてはカテゴリー化をめぐる問題がはっきりとした形で現れる。
事例1:自慰行為=「失礼なこと」
入所者に挨拶をしていた時、男性入所者が握手を求めながら服の上から自慰行為を行う。その場に居合わせた女性スタッフは、彼に「そんなことしたら失礼でしょう」と言い、彼の手を軽く叩いて注意することによってその場面を処理。
「自慰行為」を「失礼なこと」と定義することは我々の日常生活においては考えられない。この解釈は、行為の主体を「知的障害者」としてカテゴリー化し、自慰行動をそのカテゴリーに結びつく行動として理解し、そこに意味を見いだす(「失礼なこと」)という解釈過程を経てなされたもの。
事例2:「手をつなぐ」=甘え、頭を殴る=親愛の情
一般の常識では「親愛の情」だと考えられる行為を「甘え」と解釈し、「暴力」としか考えられない行為を「親愛の情」とする。
これら同じ外見を持った行為に対して定義が二重に存在している=「二重のカテゴリー化」
新人スタッフとして私は当初「利用者個人個人がどういう人か知る」ことを求められた。
これらはすべて施設スタッフとして適切なカテゴリー化をするために必要な知識である。
(各個人のスキル・レベル、身体機能の特徴、情緒面の特徴)
・スタッフ・コード
上記のようなカテゴリー化を現場で実践する際に、配慮すべきさまざまな条件
例:「時間」「チームワーク」
こうしたさまざまな条件に配慮した上で実践され、主張されるカテゴリー化のみが「適切だ」として現場で認められる。現場で働いてく上で配慮すべきこうした「適切さ」の条件はインフォーマルな規則として存在
=スタッフ・コード:個々のスタッフの意図とは独立して機能する
スタッフ・コードは、前節で述べた適切なカテゴリー化能力に基礎を置いている。スタッフはマニュアルと現場経験から各入所者を細かく分類する諸カテゴリーを得ることによって、ある一つの行動が目の前に現れたときにそれが何を意味しているのかを適切に解釈し、それに対応できるようになる。
適切に解釈できることはその次の行動を予測することを可能にする。
例:ある女性が食事を終え、自分の顎を拳で叩きながら階段を下りていく。職員はそこから瞬時に彼女が他害傾向が強いこと、顎を叩く行為が「苛つき」を示すものであるということを解釈し、さらに階下に歩行困難な入所者がいることを考慮し対処しなくてはならない。
=適切なカテゴリー化に基づいた予測が細かくできることがスタッフの有能さの証拠
→三つの暗黙のルールを形成
@ 利用者の行動を予測せよ
利用者の状態を適切に定義し、次の行動を予想することができること。このことはスタッフの能力の証明であり、同時にそれにしくじった時は、非難の対象となる。スタッフはこうしたことを避けるために正しい予測をすることに必死になると同時に、ある行動から自分がいかに正しく意味を読みとったか、そしてそれに対していかに自分が的確に対応したかをことあるごとにアピールしようとする。
事例 男性利用者:「性に対する関心が非常に強い人」「要注意人物」
言動が荒々しくなったり、スタッフの様子を廊下の陰から伺うような行動が現れると、「不安定」で「性的な衝動が高まっている徴候」と解釈され、詳細な記録が取られ、朝夕礼で注意事項として申し送りがなされる慣例。
朝、宿直明けの女性スタッフが憤懣やるかたないといった様子で係長に話しかけていた。「きのうBさん(現場二年目の男性スタッフ)が夜勤だったんですけど、ずーっと日中からNさんがSさんのこと狙ってるのに、全然見てないんですよ。 しょうがないから、きのうの夜は私がずっとSさんを連れて歩いてたんです。でも、今日の朝、私が女性棟の方に入った途端、やられたんです。きのうからあんなに私が意識してやってんのに、全然気づいてないんです。」それを聞くと上司は、「あー、Bさんフロアも違うから〔スタッフはそれぞれ所属するフロアが決まっている〕よく分かってなかったのかな。困ったもんだね」と答え、「じゃ今日はしっかりガードしてなきゃね」と言い、その場にいた他のスタッフに「お願いします」と言ったのである。〔99/11/20〕
このやりとりでは、Bという男性スタッフが、Nさんの行動がSさんを意識してのものであることに気づかなかったことが非難されている。そして、「愚痴」という形式を取りながら、自分は同じ行動を見て「狙っている」と適切に解釈できたこと、そしてそれに対しSさんを「連れて歩く」ことで予測される事態を回避したことがアピールされている。そして、そのアピールを受け、上司が「分かってなかったのかな」と反応することによって、Bという男性のスタッフとしての能力が「まだまだである」と評価されている。この反応を引き出したことによって、愚痴を言った女性スタッフのアピールは成功しているのである。
A日課を乱すな
散歩、食事、入浴などの定められた日課を時間どおりこなすことである。これは常に10名以上のスタッフが協力して利用者をケアしていることから生ずる「チームワークに配慮せよ」というコードである。しかしながら、知的障害者施設には、利用者個々人が日常生活のためのスキルを習得するという施設としての公式の目的があり、この目的とこのチームワーク志向のコードはしばしば対立し、優先されるのはスタッフ・コードの方である。
自分でできることをやらせる、自分の好みのものを選択させるというのは、全体の日課に影響が出ない限りにおいて許容される。また、全体の日課に滞りが生じていることについて注意を受けることによって優先順位があるのを知り、最初に言われた「できることを最大限にやってもらう」「自分の選択を時間をかけてもしてもらう」という施設としての原則が、制限時間内においてのみ許されていることに気づくのである。
B利用者を操作せよ
スタッフが利用者一人一人の行動特性、性格などに関する知識を蓄積することで、それらを利用可能な資源とすることができる。つまり、スタッフがある働きかけをしたときにどのような反応が返ってくるかだいたい予測できるようになるため、それを利用し、第二のコードである「日課を乱すな」という目的に添うように利用者を操作することが可能になるのである。そしていかに利用者を上手く操作できるかもまたスタッフとしての有能さを示すものとして考えられているため、一部のスタッフは利用者をこぞって操作してみせる。
事例:「散歩に行きたくない」と意思表示している入所者に「向こうでジュース買うよ」などと声をかけ参加させたり、情緒不安定になっている入所者をなだめすかせて落ち着かせ、入浴へ向かわせたりすることで、自分の有能さをアピールしようとする一種のデモンストレーションが行われているのである。適切な」解釈能力がスタッフとして評価と結びつくことによって、一部のスタッフは「利用者をいかに上手く操作できるか」を能力を誇示するために示そうとするのであり、結果的に選択の自由という入所者の本来の生活の豊かさ(「昼寝をしたい」「散歩に行きたくない」など些細なものでも)が損なわれてしまうという結果を生む。
以上のことから、現場スタッフの行動パターンとそれを規定するインフォーマルなルールこそが入所者の生活に最も重大な影響をもたらしている事が分かる。分かりやすく概念化するために、利用者よりもスタッフ側の方を向いた態度をプロバイダー・オリエンテッドな態度と呼びたい。( ←→利用者側を向いた態度=コンシューマー・オリエンテッドな態度)
・専門知識との関係
カテゴリー化=一定の信念体系の存在を前提とし、そこで定められたルールに従って行われるプロセス 例:「Xは泣いた。Yは抱き上げた。」→Xを「赤ん坊」、Yを「お母さん」・そもそも「カテゴリー」と「カテゴリーに結びついた行動」との関係を決定しているのは、その場において支配的な文化であり、信念体系。どの信念体系が支配的であるかは場面によって異なるが、知的障害者施設においてはスタッフが持つ職務遂行のために必要な知識が決定的な定義力を持つ
=「全制的施設の解釈図式the interpretative scheme of the total institution」:施設が持つ公式的な目標達成のために作られたもの
現行の知的障害者法:知的障害者施設の設置目的=「保護と更生のための訓練、指導」入所者はADLの向上、スキルを習得させ、更生、自立させるべき人間として同定される。
この図式に基づいて利用者の観察が行われ、状態の記録がなされる。
専門性の定義=病気など「対象とする現象の原因や最適な対処法などについての知識からなる一定の信念体系」
科学的知識:施設運営のための専門知識を正当化し補強する働き。
例 ゴフマン:精神障害者が規則を破り罰せられた場合、「厚かましさ、非服従、過度の親密さは「不安定」とか「興奮状態」といったように多少なりとも専門的な用語に翻訳され、医療状態についての報告として看護士によって医師に提示される」(Goffman 1961: 85-6)。施設独自のカテゴリー化のルールにのっとり、ある行動を「不安定」など科学的な言葉をレトリックとして援用して定義することにより、「落ち着いてもらうよう自室に誘導した」などのスタッフの対応が正当化される。
・専門的知識の二つの機能
@自己決定を援助する側面=良いパターナリズム=エンパワメント
事例1 自閉症の男性への視覚的手段を用いた援助 →日課を把握し、自ら行動することができ、衣服の着脱、整理整頓ができるようになった
事例2 選択メニューの日、食堂の入り口にサンプルを置き、じっくり見てから選べるようにする
A自己決定を妨げる側面=悪いパターナリズム
冒頭にあげたパーマの事例 「それは拘りだ」。根拠として心理学という科学的知識が用いられている。この解釈の方が適切なのだ、とアドバイスされる
施設スタッフとしての適切なカテゴリー化のルール:ある言葉が特定の入所者から発されたとき、それを字義どおりに受け取るのではなくその裏にある「本当の意味」を読みとるように仕向ける。
・まとめ
専門知識の定義「対象とする現象の原因や最適な対処法などについての知識からなる一定の信念体系」
施設においては「更生、自立」という目標のもとになされる知的な障害を持つ人々を理解し適切に援助していくための知識であり、 科学的知識の援用というレトリックによって補強される。
疑問:こうした現象の原因やそれへの対処法といった知識であれば専門職でなくとも我々は皆何らかの形で持っている。となれば問題は、なぜそうした日常的な知識でなく、特定の集団の知識が専門的であるとして権威づけられるのか。
クラインマン:専門職と民間の人々はそれぞれに異なる病気の原因や治療法についての信念体系である説明モデルをもち、それに基づいてそれぞれ異なる病いのリアリティを構成する。(「臨床リアリティ」)しかしながらそうしたさまざまな臨床リアリティのなかで「あるリアリティ構成を唯一の臨床リアリティだとして正当化する力は同等に配分されていない」(Kleinman 1980: 52)と指摘する。つまり専門職による説明と、それによる病いのリアリティが唯一のものとして他への強制力を持つ。その力は専門職の制度化の程度による、とクラインマンは論じるのである。このクラインマンの議論に依拠するなら、福祉施設における問題も理解できる。施設スタッフに関しては免許制度や画一の教育制度などが現時点では存在せず、専門職として制度化されているとは言い難い。だからその説明モデルには医学、教育学などの他の制度化された知識による権威の補強を必要とする。しかしながら、施設内においては競合する組織化された説明モデルは存在しないため、唯一のものとして利用者に適用されるのである。しかも現時点では日本の障害者福祉は措置制度であり、「契約者」として自らの考えを主張する強みも利用者には保証されていないのである。
ここまで考察したことで、冒頭で提示した「施設入所者の要求がなぜ施設職員によって退けられることが多いのか」という疑問に一定の答えが出せる。それは施設スタッフと利用者のもつ知識やそれに基づく生活についての意見の間に力の差が存在することによる。この力の差は、すでに見たように、良いパターナリズムに支えられれば利用者の自己決定を援助するエンパワーメントの機能を果たすが、悪いパターナリズムに支えられた場合、問題としているように、自己決定を阻害する働きをするのである。その力の源泉は現在の入所施設の状況を決めている福祉制度のあり方に存在する。
・ではどうすればよいのか。
措置制度から契約制度へ移行:施設利用者は「契約者」となり、スタッフと利用者との意見の力関係も多少変わってくるだろう。しかし、入所型の施設において、意見に力関係の存在するスタッフと利用者という二者しかいない場で利用者の生活が決定されてゆくということの問題が解消されるわけではない。
・対策1
福祉従事者になろうとする者への教育や、現場の中の話し合いからよりよい(つまり良いパターナリズムにもとづいた)援助が行われるように働きかけていく。
八王子平和の家の取り組み=倫理綱領づくり 利用者からやってほしくないことの聞き取りを丹念に行い、長い話し合いを経てできあがる。
利用者からの意見「私たちの分からない話を職員だけでするのをやめてほしい」
=利用者の方ではなく、職員の方を向いた態度を鋭く指摘するものであり、まさにプロバイダー・オリエンテッドの態度、利用者よりもスタッフ・コードを気にする態度を鋭く指摘する
・アメリカの心理学者ランデスマンLandesman「スタッフ不足という誤った通念」:スタッフを増員して余剰スタッフが増えても彼らは相変わらず居住者から離れたところで仕事を行っているか、居住者の福祉向上には関連しないスタッフ同士の会話が増えるだけ
対策2
上記の対策は福祉従事者の良心に期待するもの。しかしそうした従事者の良心に期待する制度の中で虐待などの問題が生じてきたのもまた事実(阿部ほか 1997)。
こうした教育と平行して、知的な障害を持つ人の直感的な要求から生まれた言葉を、専門的な知識などで解釈せず、日常的な感覚でそのままに受け止めるような第三者が施設の中で権利擁護者として受け入れられるような体制づくりが必要である。
施設に暮らさない障害を持つ当事者や、出来るだけ地域の生活感覚を身につけた人が日常的に施設を訪れ、障害を持つ人と話し、その人を知ること。
=ピア・カウンセリングの設置の義務づけなど
北野誠一「コンシューマー・コントロール」
・最後に
「障害の受容」からディスアビリティー・アイデンティティ(DI)へ
ライフヒストリーの聞き取りを通じ、自分自身を「障害者」だと認識していないインフォーマントが非常に多いことに気づく。特に中・高年の方に多い。家族から施設入所に際して十分な説明がなく、自分が施設にいることに対し強い怒りの感情を持っている。あるいは悲しみ、やりきれなさを口にする方もいた。
若年の方の場合は特殊学級に入ったことで周囲から「知恵遅れ」といわれる経験を多く持ち、否定的な形でDIを持っている。「先生たちの言うことをきかなくちゃいけない」
・セルフ・アドボカシーのためのナンシー・プログラムの骨子
=自分の状況が、障害の三類型(機能的、能力的、社会的)のどの部分によるものなのかを認識することで、自分自身が受ける差別に対して敏感になり、NOを言えるようになる
→そのためには、障害者としての肯定的なアイデンティティーを援助者とともに作っていく必要がある。
「障害の受容」=嫌なものを受け入れられるようになるイメージ
DI=自分のできること・できないことを把握し、その上で自分が欲しいもの・欲しいサービスをを要求する事ができる態度。ソーシャルワーカーが考える「必要なもの」と対立しても、交渉していくことができる態度の核になるもの。