TOPsoudan >080320yanagi.html

テーマに関するシンポジウムにおける問題意識について

                                                      れんげの里  柳 誠四郎


 今回のフォーラムでは、こちらの手の内で計りきることができる「重さ」としての障害ではなく、手の届かない障害を「深さ」としてとらえる視点で相談援助のあり方を考えてみたいと思います。

 「『深い』障害」という表現には、おいそれと他人が介入できない一人一人のくらしや願いに畏敬の念を持って向かう構えが見えます。副題にある「本人中心」とはそのところをしっかり見据えるということでしょう。

 私達の仕事は、そんな本人のくらしを保障し、困っている人が暮らし易くなるよう支援をする仕事です。 

 そのために様々な制度や援助技術を利用しますが、そこには二つの壁があります。

 一つは困って(・・・)いる(・・)人(・)と困って(・・・)いない(・・・)人(・)との関係の壁です。「その財源をどうするの」「外国人に職場を奪われていいの」「地域の治安が守れません」等、受け止める方の義務を前提にしなければ、超えることのできない壁があります。

 支援者はこの壁を前にして、彼らの意志を実現するために支援をすることになりますが、支援者自身も状況から全く自由であるというわけにはいきせん。“研修会への誘い”の中に「『わからない』というのは『わかると困る』ということなのだ」と小澤氏の指摘があるように、援助者自身がわかってしまっては困る状況に直面することがあります。

 想像力を働かせ、間をおいて見れば、「される、する」関係を超え、双方の暮らし易さが見えるのでしょうが、生身の人間にとっては、なかなか難しいことです。

 もう一つの壁は標準化と個別化の問題です。標準化は、現実の課題を解決する手段として制度や支援技術に実を結び、それなりの積極的な役割を持ちます。しかしその過程において個別性が捨象されていることが忘れられがちです。

 私達が支援する人たちは、そこで捨象された様々な思いを持って今を引き受け生きている具体的な人達です。一般的に、機械的とか役所的といいわれている対応は、人の必要性を、こちら側の価値観、現行の諸制度の鋳型に押し込めてしまうやり方です。
ここで求められることは、「好い加減であること」「例外を受け止めること」「臨機応変であること」です。

 最終的には、折り合いをつけ現実的(・・・)な道をとらざるを得ないのですが、その時どこに立ち、どこを向いて、どう乗り越えようとするのかが相談支援者には問われるのだと思います。 



TOPsoudan > 080320yanagi.html