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『良い支援? 知的障害/自閉の人たちの自立生活と支援』にまつわる話 その1 “サファリパーク”の支援/“動物園”の訓練? =たこの木通信 254号= ↓感想 サファリパークの支援/動物園の訓練に寄せて (記名なしメール) その表現方法(選んだ言葉)に先ず、オデコをお膳にゴッツン(意識の中で)させながら、その「オヨヨ」的表現よりも言わんとする事(老親の思い)について考え述べさせていただきます、わたしの浅い懐でもって。 わたしが象だったら(ライオンだったとしても)、やっぱり動物園よりサファリパークがいいなぁ。 その理由は説明するまでもなく、一目瞭然だと思いますが… どんなに愛情溢れる園長や飼育員でもその管理下の生活に変わりはない訳で、飼われている命の虚しさを感じられる程度の感覚は持っていると思う、動物園の動物だって。 飼われている命という点ではサファリパークも同じではないかと思うので、この辺りでオデコゴッン的比喩に別れを告げて、半端な地域派という表現に移ります。 半端は完全に近づく可能性を秘めていると思う。では、完全な地域派って何だろう。時給自足は完全に近いだろうけれども、そういう方向を向いているのではきっとなくて、わたしの中での完全はというと特別ではなくなる事なのですが、それと同じ方向に向かおうとされていると信じて先へ進みます。 特別な事ではなくなるという事は、訓練もしなければ専門性も必要ない。のみならず、介助員を含む制度も福祉という概念もなくなる事で、障害という「くくり」も消え、たこの木さんは単なるたまり場と化する、気のいい白髪のおっちゃんを慕って集う人々の。そんな生活に早くなりたいよ〜って、顔中で笑う岩橋さんを思い浮かべながら、思考を理想から現実へ。 そんな「完全な地域派」に、一足とびにはいかない事はわかっているけれど、だから半端な地域派は半端を自覚しつつ、今現在の可能な限りを追い求めて地域生活を展開していく。 訓練は、命令に従う事が大前提だと思います。が、支援は、自己主張が基本。その主張を基に、責任と決定を重ねていく、ギブアンドテイクを絡めながら。 誰しも、個人の責任能力には限界があり、自己責任を越える場合は諦めるか代わって責任を負ってくれる誰かに依頼する。諦めか依頼かを決めるのも、依頼する誰かを決めるのも自分。 決定についてもやはり自分一人では決められない事は誰にもあって、相談という形で誰かに委ねる場合もある。が、そんな時も委ねる相手を決めるのは自分。それらの全てを決められないと思われる方でも、やはり支援者サイドで決まった事を実行する最終決定は本人。本人の了承なしに遂行されてはならない。 自分にできない事は誰かにしてもらう。してもらったお礼として何かお返しをしたいけれど、ありがとうとほほえむ事しかできない人やありがとうの一言もほほえみさえも難しい人がいて、それでも感謝の気持ちは伝わる人には伝わるけれど、気持ちだけでは生活がなりたたない(する側もされる側も)今の世の中なので制度に頼らざるを得なくて、その制度も半端だし制度をつかう人も半端(単に稼ぐための介助員や、自分が楽できればそれで良い親、本人もか?)がかなり混ざっているから、ハコ入れ生活に安定してしまった先達は、サファリパークとなどという的を得ているようで実は全く的外れ(だって、入所と地域の一番の違いは表せないでしょ、動物園とサファリパークでは)な比喩を用いて新しい形の生活を皮肉ってくださったのかも知れない、警告の意味も込めてか。 だけど、警告とも取れるその皮肉めいた先達の言葉の中にこそ、実は最も根深い問題(最大最強最悪の)が露呈している。と、怒りとオゾマシさに震えるのはわたしだけでしょうか。 このオゾマシき勘違いという呪縛(懐の深浅という問題ではないと思います)を解き、怨念を取り払うためにも我々地域派(というのも本当は違う、わたしは人権派です、地域での生活その一つ)は地域生活を満喫し、それをアピールしつつ脱半端を目指そう。 |
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