2-1 親の立場から
イナッフ・フォア・トゥデイ? 主宰 岡部耕典
親の役割とはなんでしょう?
学齢期までの子供に対して親が果たすべき役割というのは、子供が障害を持っていてもいなくても基本的には同じであると思います。障害のある子供との生活をなにかまったく特殊なことであるかのように考えることはないのではないでしょうか。
しかし、障害のある子供と暮らすということは、彼らが受けている様々な社会的制限をいやというほど感じるということでもあります。障害のある子供の参加を前提に考えられていない多くの社会的なしくみや制度、周囲の人たちの態度及び施設設備が、バリア(障壁)になっています。
子供が障害を持ちながらも自分なりに人生を楽しみ成長してゆくことを妨げるのは、心身の障害そのものよりも、こういった社会環境のバリアのことが多いのではないでしょうか。障害のある子供の親は、好むと好まざるとに関わらず、障害のある子供と社会環境の間に立って、それを調整してゆく中核的な機能を果たすことになります。このとき、親がその役割を自覚してそれを積極的にひきうけようとすることは、障害のある子供に対する環境のバリアの高さを大きく変えるだけでなく、子供と共に暮らす親自身の生活を前向きに変える契機とも成り得ると思います。
たとえば、自閉症やADHD(注意欠陥多動性症候群)等の障害をもつ子供たちは、ある時期、どうしてもじっとしていられなくて、動き回ってしまったり、迷子になってしまったりすることがよくあります。これを「多動」といい、こういった障害の症状のひとつであることは関係者のあいだでは良く知られたことですが、一般の世間の人にとってはそうではありません。特に、知的な障害の症状は、多くの肢体等の障害と違い、外見からでは障害が原因とは判りにくいので、世間の人から見ると単なる落ち着きのない、親のしつけの悪い子供と見えてしまうことも多いのです。バス等の公共機関のなかで騒いだり、しょっちゅう行方不明になって知らない人の家にあがりこんでいたりすることもあります。当然、知らない人からは変な顔をされ、怒鳴られ、いっしょにいる親も非難されたり冷たい視線を浴びせられることになります。
こうした状況は、特に親にとっては恥ずかしいやら腹が立つやらで辛いもので、ついとにかく謝ってその場を逃れたり、これからはそういう状況を回避しようという方向(子供を余り外出させないとか)に走りがちです。しかし、とっさの場合は別にしても、それがいつもそういう対応となると、障害のある子供や親の対人関係は後ろ向きなものになってしまわないでしょうか。たとえば、問題となることを怯えたり避けたりするのではなく、その場で障害の説明をして周囲に理解を求めること、場合によっては、あらかじめ近所にそういう説明をしておくとか、多動の子供でも安心して公共交通や施設を利用できるようなしくみや工夫を提案したりすることはできないでしょうか。深呼吸して・少し視点を変えて・半歩前に踏み出して、世間の人たちという環境のほうに向き合い働きかけてみるという姿勢があると、気持ちも生活もずいぶん変わるのかもしれません。
いままで述べてきたことは、障害児の親にとってはなかなか難しいことのように思えるかもしれません。しかし、子供に対する「保護者」であることに加えて、あえて意識的に「支援者」としての姿勢と視点をもってみることを提案します。支援者、すなわちサポーターです。それは、子供を同じ目線で応援してゆく立場をあらわしています。過度に子供と自分自身を同一視したり必要でない責任まで背負い込んだりすること、そして一方的に子供のほうを変えようと思ってしまうことは支援者の姿勢ではありません。親が子供と少し離れて立ってみて、同じ人生を生きる一番近い仲間としての我が子をめぐる問題を客観的にとらえてみることも必要です。問題はどこにあり、環境を改善すべきところと本人を支援すべきところはなんであるのか。社会のバリア(それは親が子供にもつバリア及びその子供自身の心のなかのバリアも含まれます)に積極的に向き合いそれに働きかけようとすることで、社会と障害をもつ親子の関係もまた大きく変わり、親自身も人生を前向きに生きる力を得られるのではないでしょうか。
パートナーとしての尊重
当然のことですが、「親子」の関係が存在するまえからパートナーとしての「夫婦」の関係はあるのです。まずそれを忘れずに、パートナーとして相手の尊重と慈しみの気持ちを忘れてはならないと思います。
障害のある子供を生んだ母親の多くは、自分自身が障害をもったような気持ちと状態になります。子供の介護等で疲れ果てながら、同時に周囲の偏見にも対処しなくてはならない母親は、差別と偏見にさらされている障害の当事者と同じともいえる状態に陥りがちです。父親は、その苦しみと葛藤のありのままをおなじ目線でうけとめ、物心ともに支援しなくてはなりません。
母親が自分の子供が障害をもっていることを心からうけいれるということは、なかなか大変なことである場合が多いようです。これは特に、自閉症等の、生まれてすぐにはよくわからない、外見では判断がつきにくい障害の場合には顕著です。しかし、子供がもつ障害の受容がされなくては、「障害を含めた子供全体を親が受け入れている」ということにはいたりません。この大事な作業にはパートナーの支援が重要です。
一方、父親のほうはどうでしょうか。多くの家庭では、生計を支える主たる柱は父親です。しかし、「生計を支えている」ということで、母親のほうが遠慮しすぎているきらいはないでしょうか。父親にも協力をもとめ、子供のことについて、自分の悩みについて、生活のこと等について率直に相談し巻き込んでゆく姿勢が、母親のほうにも必要です。いままでの夫婦生活やその価値観について「棚卸」をする必要があるかもしれません。そして障害のある子供を、自分達の人生におけるかけがえのない存在としたうえで仕事を含めた人生を再構築する必要があります。この人生の「座標軸の変更」ともいうべき作業は、夫婦が力を合わせなければできないでしょう。
そのためには母親のほうも、父親をひとりの人間として受け入れることが必要です。たとえば、仕事で成功し高い社会的評価と収入を得ることと、障害のある子供をきちんと支援して生きることが矛盾することもあるかもしれません。また、仕事というものは、しばしば、単に生計の手段だけではなく、生きがいでもあるのですから、仕事と家庭の間で悩むありのままの姿を受け入れてもらえないと、父親も行き詰まってしまうでしょう。そういう関係を乗り越えて、相手を受け入れ、場合によっては引越・転職等の大きな変化をも怖れずに視野にいれて、冷静かつ柔軟に検討してゆける本当のパートナーシップを生み出していきたいものです。ひとりで抱え込まずに、家族全体の問題として共有し検討してゆく権利と義務は、母親にも父親にも等しく存在するるものであると考えます。
家族という社会の関係調整をはかる
親子というのが子供にとっての最初の人間関係であるならば、家族というのは、最初の「社会」であるといえます。今の日本は核家族が多くなっていますが、障害を持つ子供にとっての社会として家族を捉える場合は、同居別居に関わらず、双方の祖父母まで拡大して考えたほうがいいと思います。というのは、祖父母の考えや意識は父親や母親のありかたに大きく影響を与える場合が多いからです。
母親が子供の障害を受容するためにも、夫婦の親である祖父母への対応は特に重要です。特に父方の親は、子供が障害をもったことの責任が母親にあるように非難してしまいがちで、これは母親には特につらいものですが、この解決の鍵は父親が握っている場合が多いと思います。突破口をひらくひとつの方法は、父親がいかにこの障害をもった子供を愛しているかを祖父母のまえで語り、実際にもその姿を見せることかもしれません。障害を受け入れようとしない祖父母を単に激しく非難したり、むやみに母親をかばうだけでは事態は改善しにくいでしょう。
障害のある子供の兄弟の問題については、どうでしょうか。障害ある子供が生まれたときは、ついその子供のことで無我夢中になり、兄や姉については、どうしてもしわ寄せがきます。それ自体はしかたのないことかもしれませんが、しかし、彼らのことも平等に愛しているということをおりに触れてきちんと言葉にして伝えることはとても重要です。親は、障害ある子供の兄弟姉妹が、自分たちと同じく障害のある子供の支援者であることを期待します。しかし、彼らは、支援者である前に、まず平等に自分たちの子供であるということを忘れてはなりません。そういう姿勢が前提として親にあってはじめて、障害をもった兄弟妹弟には特別な援助が必要でありそれは不平等ではないということも素直に理解されるのであり、その逆ではないと思います。
障害のある子供が生まれたのちに子供が生まれることももちろんあります。子供が生まれるということ自体は、選択できることでも選択すべきものでもないと思います。しかし、共通認識と現実的な対応について、夫婦がよく話し合うときは大切です。父親は、少なくとも出産と育児の負担の多くは母親にかかるであろうことを良く念頭においたうえで、まず、母親の気持ちに敬意を払うべきです。父親が育児を担当するのであっても、生む性としての母親の気持ちは尊重されなくてはなりません。そのうえで、夫婦それぞれの考えと希望を率直に語り合うことです。可能なら、他の兄姉とも話し合うのもよいと思います。
障害のある子供の自己信頼を育む
前節では、家族が、障害のある子供を自分達の家族にとってのかけがえのない一員として選び取り、そのありのままを受け入れるようになるためにはどうしたらいいのかということについて検討してきました。実は、このことと、障害のある子供自身がありのままの自分を肯定し主体的に生きてゆく力をつけることには大きな関係があるのです。
どんな人でも、人間関係のなかで相手のことを尊重しながらも、むやみにその意向に振り回されたりすることなく自分の意思を伝えてゆくためには、自分自身の心の中に、「自己信頼」とか「自尊感情」といわれるものがきちんと備わっている必要があるといわれています。そして、障害のある人にとっては、障害をもっていても生き生きとした生活を送り、さらに将来ひとりの人間としてそれなりにきちんと自己主張したり選んだりする力を発揮するには障害の重さよりもこの自尊感情の形成か大きく関係しているようです。
自尊感情はどのようにして育つのでしょうか。人間には生まれつき、他の人間と親密に交わりたいという気持ちがあり、それが対人関係を生みます。自尊感情が形作られるのには、この対人関係において、それも生まれてから学童期までの親またはそれにかわる親密な存在との対人関係の質と量の影響が大きいようです。一人の人間として尊重され愛し愛された経験、他の人間との親密な時間の共有が、自尊感情の形成の基礎です。親が子供の自尊感情の形成に果たす役割が大きいことが理解されると思います。
もちろん障害の原因と自尊感情とが関係があるわけではありません。また障害の症状の現れ方には個性等も大きく影響し、育て方とも直接的なつながりは薄いといわれています。しかし、自閉症や知的障害における強い行動障害や自傷行為、反社会的行動等とこの自尊感情の低さを指摘する人はいます。障害の原因を母原病としたり全ての責任を家族に背負わせるような誤った考えとははっきりと決別する一方で、親として障害のある子供の内面を育むことには自覚的に取り組むことは忘れてはならないことだと思います。
また、自尊感情を豊かに育むことと障害のある子供の見守りや介護を全て家族が背負い込んで疲れ果てることとは意味が違います。むしろ親の気持ちの余裕がなくて形式的な対応をするとか、他の人間関係がまったくなくなってしまうといったマイナス面のほうに注意が必要かもしれません。自分の都合だけでなく子供のそのときの状態をふまえた利用、可能な限りの子供の側からの状況の理解は前提となりますが、必要に応じ、レスパイト、ホームヘルパー、ショートステイといった福祉サービスは有効に活用されるべきですし、家族以外の人たち、特に同世代の子供たちとの交流の機会も大切なことはいうまでもないでしょう。
子供が大人になり親が支援する
これまでのことは、あくまで学齢期までの障害のある子供が前提で考えてきました。しかし、障害があってもなくても、子供は思春期を迎え、成人していきます。そうしたとき、子育てに一生懸命だった親ほど、子供の独り立ちを認めにくいものです。たしかに同年齢の障害のない人に比べ、障害のある部分の心身の機能については、部分的には年齢相応ではないかもしれません。しかし、全体としては、年齢相応の「大人」であるという認識をもたなくてはならないと思います。「大人」は、自分のことを自分で決める権利があります。どんなに重度の障害で心身の介護をうけていても、それゆえに身の回りのことがひとりでできなかったとしても、その人の人間としてその意志と選択は尊重されるべきです。仕事、独立した生活、結婚、出産すべての人生の局面において、まず本人の希望する選択が尊重されたうえで、それが現実的に可能かどうか、可能とするにはどういうサポートが必要なのか、といったことが慎重に検討されるべきなのであり、決してその逆の順序ではありません。これは援助の専門家の姿勢に求められるべきものと同じです。このように、成人した障害のある人に対する親の姿勢は、それでも未成年のうちにはいくぶんかは残っていた保護者の立場をはなれ、完全に支援者の立場になりきることが求められます。
親だからといって、その子供に対する支援や介護が社会から当然のことと強制されることは、親をいつまでも保護者としての立場に固着させてしまいます.残念なことに、日本には、障害のある人が成人しても家族に扶養責任を負わせる制度がまだまだ残っています。また、制度だけでなく、人々の、そして親自身の意識の中にも根強くあります。この制度や意識が、障害のある人の自己決定の権利や年金などの財産までもを奪い、障害のある人を社会全体が支え、障害のある人もない人も、自立して生き生きと暮らせる社会を作ることを妨げています。
さらに、社会的な意識や制度がかわるには、違った立場の人たちどうしの相互の理解と共感がひろがることが必要です。それには、家庭内や障害の家族同士の関係を超える地域でのつながりや活動の場も作らなくてはなりせん。親の立場を自分の子供のみの保護者から、障害ある人すべての支援者にシフトしてゆくことにより、より多くのエネルギーが、障害のある人もない人も、立場を超えて同じ市民としての連帯と協働のもとに、暮しやすいコミュニティを作る活動に向けられるべきでしょう。自分の子供のことだけの利益を願っても、継続的な本当の幸せは訪れないのではないでしょうか。
日本の障害福祉も、障害があっても特別な施設で一生を終えるのでなく、必要なサポートを受けながら普通に暮らしてゆく在宅福祉への転換期を迎えています。しかし、それは、成人した障害のある人が家族と一生同居し、介護をうけるということではありません。障害のある人への理解と交流を図り、地域のなかで市民として人間として当たり前に暮らす権利を守る。支援者の役割は尽きることはないように思います。
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